二ッポン古代史の反乱「藤原仲麻呂の乱」の裏に怪僧道鏡 (2/3ページ)

日刊大衆

 こうした中、仲麻呂政権を支えた有力なブレーンが相次いで他界。次第に身内を要職に推すようになったことから朝廷内に反仲麻呂派が形成され、これが孝謙上皇と結びついたことで、政権は後半になって、その基盤が大きく揺らぎ始めた。

 さらにその後、近衛府(内裏の警護などを担う)となる軍事組織(授刀衛)幹部も反対勢力で占められたことで、これに危機感を抱いた仲麻呂は天平宝字八年(764)九月二日、新たに都督兵事使という軍事組織を創設。畿内及び、周辺で兵を募る権利を得る。ただ、これだけでは不安だったのか、公文書を改ざんして兵の増強を図ろうとしたことが九月一一日、部下の密告によって発覚し、孝謙上皇はこれを「逆謀」と考えた。

 とはいえ、改ざんそのものが反乱とまでは言えず、実際、密告を受けた孝謙上皇はこの日、すぐに行動を起こし、淳仁天皇の御所にあった御璽(天皇が用いる印章)と駅鈴(駅馬使用の許可証)を奪取。『続日本記』は多くを語らないものの、上皇はこのとき、配下の者に天皇の身柄を押さえさせ、御所内に幽閉したものとみられる。

 前述の通り朝廷は当時、道鏡を批判する淳仁天皇と仲麻呂派、孝謙上皇と反仲麻呂派に二分されていた。上皇サイドが御璽と駅鈴、さらに天皇の身柄を奪って機先を制したことは、「官軍」となったことを意味する。

 当然、仲麻呂もその原則を承知し、配下に命じて御璽と駅鈴を奪い返そうとしたものの、その企てはあえなく失敗。仲麻呂はこうして兵を引き連れ、かつて国守を務めた近江に逃れて再起を期すことになった。

■反乱の本質はあくまで上皇との対立だった!?

 こうした中、孝謙上皇は改ざんが発覚した翌一二日、勅を発して仲麻呂が子や孫と反逆した事実を告げ、太師(太政大臣)である彼が政府の官印を持って逃げたことから、太政官符(政府が発行する公文書)は無効であると宣言。

 こうして仲麻呂は反逆者にされたが、当初に起きた御璽と駅鈴の争奪戦で彼が勝ち、淳仁天皇の身柄を押さえていたら、結果は逆だったかもしれない。つまり、仲麻呂の一連の行動は結果的に反乱となったものの、あくまで本質は孝謙上皇と淳仁天皇や仲麻呂の政争と言うべきだろう。

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