二ッポン古代史の反乱「藤原仲麻呂の乱」の裏に怪僧道鏡 (3/3ページ)

日刊大衆

 とはいえ、仲麻呂は結果的に反逆者となった。はたして彼は平城京(奈良)から逃亡したあと、どうなったのか。

 彼はまず、奈良から宇治を経て逢坂山(滋賀県大津市)を越え、琵琶湖岸に達し、瀬田川を渡って近江の国府に至ろうとした。だが、上皇方の兵が逢坂山越えよりも近い山道のルートで先回り。瀬田橋を焼いたことで仲麻呂の計画は狂い、琵琶湖西岸を通って越前の国府(福井県越前市)を目指した。息子の辛加知が越前の国守だったためだが、またしても上皇方が越前国府に兵を急派。辛加知を殺害し、国府を押さえた。

 さらに、仲麻呂はまたしても軍勢に行く手を阻まれ、琵琶湖西岸の三尾崎(滋賀県高島市)で、都から追ってきた上皇軍と合戦になって敗れ、勝野の鬼江と呼ばれる琵琶湖の入江(同市乙女ヶ池)で湖水に逃れたものの、惨殺された。一方、淳仁天皇も反乱の責めを問われ、その地位を廃されて淡路に流された。

 こうして孝謙上皇は称徳天皇として重祚し、翌天平宝神護元年(765)、道鏡は太政大臣禅師となったのである。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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