《没後20年》長州、天龍、三沢…「7大名勝負」で振り返るジャンボ鶴田伝説 (4/4ページ)
長州は87年春に、新日本にUターン。そこで「俺がジャンボを本気にさせてやる!」と立ち上がったのが天龍源一郎だ。天龍の全身全霊でプロレスに打ち込む姿勢は天龍革命と呼ばれ、多くの支持を集めた。
一方、鶴田は、天龍が熱くなればなるほどクールな姿勢を貫いた。「天龍が道場で一生懸命汗を流している? 僕はテニスで上品な汗を流しているから大丈夫だよ」「僕は横山やすしになれと言われても西川きよしなんです」と天龍の神経を逆なでするような発言を連発していたが、苦しさや努力を人に見せずに余裕を持って飄々と試合をするというのが鶴田の美学であり、強烈なプライドだったからだ。
鶴田と天龍の鶴龍対決はプロレスの技量だけでなく人生観など、人間としての全てをぶつけ合う闘いになった。89年4月20日の三冠戦では鶴田がパワーボムで天龍を失神させ、欠場に追い込む激しさだった。
そしてその1カ月半後の6月5日に日本武道館で行われた一戦が鶴龍対決のベストバウト。鶴田が容赦なく天龍の首を攻め、やられにやられた天龍が最後にパワーボムで逆転フォールに成功。敗れても鶴田の強さが際立った試合だ。
天龍は翌90年4月19日に横浜文化体育館で鶴田のバックドロップ・ホールドに敗れた試合を最後に全日本から離脱。その直後に鶴田に牙を剥いたのは、タイガーマスクから素顔になった三沢光晴である。
同年6月8日の日本武道館で鶴田に勝利した三沢は川田利明、小橋健太(現・建太)と超世代軍を結成して全日本の新時代のエースに名乗りを上げたが、若い世代の台頭は天龍以上に鶴田を本気にさせ、鶴田の怪物性を引き出した。
同年9月1日の再戦ではバックドロップ・ホールドで雪辱、さらにベストバウトの呼び声高い91年4月18日の3度目の対決もバックドロップ3連発で粉砕。その2日前にはスタン・ハンセンを破って「チャンピオン・カーニバル」にも優勝している鶴田は「天龍、長州、元気ないぞ。この年代の強さを見せないと」と、かつてのライバルたちにエールを送った。
誰も太刀打ちできずにまさに全盛期を迎えた鶴田だったが、病魔には勝てなかった。翌92年にB型肝炎を発症。同年11月から長期欠場を余儀なくされ、そのまま第一線を退いたのである。
しかし鶴田は第2の人生に力強く踏み出す。筑波大学大学院の体育研究科でコーチ学を学んで慶應義塾大学、桐蔭横浜大学、中央大学で講師になり、99年3月6日に引退をすると、渡米してポートランド州立大学の客員教授に就任した。
翌2000年5月13日、フィリピンで肝臓移植手術中にハイポボレミック・ショックによって49歳の若さで急逝したが、最後の最後まで人生に前向きだった。クールに装いながら、最後まで熱く生き抜いたジャンボ鶴田は、紛れもなく最強のプロレスラーである。
(元「週刊ゴング」編集長・小佐野景浩)