伊達政宗と繰り広げた骨肉の争い!戦国時代の女城主・阿南姫の生涯【1/4】
戦国時代は男性だけでなく、女性も時として家督を継承して城を守り、第一線で戦うことがしばしばありました。
最近では大河ドラマのヒロインとなった井伊直虎(いい なおとら。※男性説アリ)が有名ですが、今回は東北地方で活躍した女城主の一人・阿南姫(おなみひめ)の生涯を紹介したいと思います。
「女ひとりとるために……」母・久保姫の争奪戦
阿南姫は天文十1541年、陸奥国の西山(現:福島県桑折町)城主であった伊達晴宗(だて はるむね)とその正室・久保姫(くぼひめ)の長女としてこの世に生を享けました。
兄に岩城親隆(いわき ちかたか)、弟に伊達輝宗(てるむね)がおり、この輝宗は後に「独眼竜」として活躍する伊達政宗(まさむね)の父ですから、阿南姫は政宗の伯母に当たります。
ところで、どうして長男の親隆が伊達家の跡取りでなく、岩城家の養子に出されているのかと言いますと、その理由は母の久保姫が別名「笑窪御前(えくぼごぜん)」と呼ばれたほどの美人であったことに起因するそうです。
久保姫の父である大館(現:福島県いわき市)城主の岩城重隆(いわき しげたか)は、美しすぎる娘の嫁ぎ先を巡って晴宗や相馬(そうま)一族と争いを繰り広げたと言われています。
「お義父さん……娘さんを、僕に下さい!」
「いえ、お義父さん……久保姫には私こそが相応しい伴侶です!」
「黙れ小僧!貴様らにお義父さんなどと呼ばれる筋合いはないわい!」
とか何とか散々にもめた挙げ句、最後は軍勢を率いての戦闘にまで発展してしまったそうです。
♪……女ひとり とるために いくさしても いいじゃない
それで夢が買えるなら お安いものだと思うでしょ……♪※山本リンダ「狙いうち(作詞:阿久悠)」より。
「みんなやめて……私のために争わないで!」
その美しさが、戦争まで惹き起こしてしまった久保姫(イメージ)。
(※こういうヒロインの立場に憧れる女性は少なくなさそうですが、いざ当事者になったらなったで、実に迷惑千万でしょうね)
ともあれ死闘を繰り広げた末に夢を勝ち取った(買い取った?)晴宗ですが、盃を交わした重隆より、条件が一つ提示されました。
「男子が生まれたら、優先的に岩城家の養子とすること!」
そんな経緯があって長男の親隆は祖父・重隆の養子に出され、次男の輝宗が伊達の家督を継ぐことになるのですが、それが後に、阿南姫を兄(岩城氏)と弟(伊達氏)の板挟みに追い込むことになります。
長男・平四郎を授かるも……蘆名盛氏の人質にとられるさて、母ゆずりの美貌を誇ったであろう阿南姫はすくすくと成長し、やがて須賀川(すかがわ。現:福島県須賀川市)城主の二階堂盛義(にかいどう もりよし)に正室として嫁ぎました。
「ちょっと線が細いようだけれど、お優しくて聡明で、申し分ない方だわ」
盛義は武勇よりも文雅を好むインテリ気質の草食系だったそうで、夫婦仲は円満。阿南姫は21歳になった永禄四1561年、長男・平四郎(へいしろう)を授かります。
「おぉ……阿南よ、でかした!」
家族が増えた喜びを分かち合い、ますます円満な阿南&盛義夫婦でしたが、その幸せは長く続きませんでした。
その頃、二階堂一族は陸奥国黒川(現:福島県会津若松市)城主の蘆名盛氏(あしな もりうじ)と抗争を繰り広げており、永禄八1565年に降伏を余儀なくされたのです。
「和睦の証として、そなたの嫡男・平四郎君(ぎみ)を我が養子と致そう」
養子と言えば聞こえはいいものの、その実態は人質。もし盛義が再び蘆名に逆らえば、真っ先に処刑される運命が待っています。
「嫌、嫌です……たとえ一族皆殺しにされようと、平四郎は私の子です!誰の養子にも渡しません!」
愛しい我が子を手放したくないのは盛義も同じ……しかし、ここで私情を優先すれば、須賀川の民が蘆名盛氏によって蹂躙され、塗炭の苦しみを味わうことになります。
「……阿南よ、わしとて我が子を手放したくない気持ちは同じ……されど、須賀川の民もまた大切な我が子じゃ。別に平四郎が死ぬと決まった訳ではない。今は蘆名に忍従してでも、必ず親子みなで再会を果たそうぞ……!」
かくして阿南姫は、まだ5歳の平四郎と生き別れ、二階堂家は蘆名盛氏に臣従することとなったのでした。
【続く】
※参考文献:
芳賀登ら監修『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993年
垣内和孝『伊達政宗と南奥の戦国時代』吉川弘文館、2017年
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