伊達政宗と繰り広げた骨肉の争い!戦国時代の女城主・阿南姫の生涯【4/4】

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伊達政宗と繰り広げた骨肉の争い!戦国時代の女城主・阿南姫の生涯【4/4】

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伊達政宗と繰り広げた骨肉の争い!戦国時代の女城主・阿南姫の生涯【3/4】

戦国時代、伊達晴宗(だて はるむね)の長女・阿南姫(おなみひめ)は、夫・二階堂盛義(にかいどう もりよし)亡き後、女城主として須賀川(すかがわ。現:福島県須賀川市)の地を治めていました。

※夫の菩提を弔うため、出家して大乗院(だいじょういん)と称していますが、便宜上「阿南姫」で統一します。

そんな天正十七1589年6月5日、摺上原の合戦に敗れた主君・蘆名義広(あしな よしひろ。佐竹義重の次男で阿南姫の甥)が所領を捨てて逃亡。蘆名を滅ぼした伊達政宗(まさむね。晴宗の孫で、阿南姫の甥)の大軍が須賀川城に迫ります。

伯母に降伏を勧める伊達政宗(イメージ)。

「伯母上と戦うのは本意ではございませぬ。手厚くおもてなし致しますゆえ、どうか降伏して下され」

もともと身内だった伊達と二階堂、その両家が争うようになった原因は蘆名家の後継者問題であり、その蘆名家が滅亡した今、争う理由は何もない。

……その筈でした。

女子と思って侮るな!4ヶ月以上にわたる籠城戦を耐えた阿南姫

「戦いまする」

勝算はもちろん、理由さえない戦いを選んだ阿南姫の返答に、誰もが耳を疑います。

「暫時!暫時!」

「尼御台様!お気は確かにございまするか!」

家老の須田美濃守盛秀(すだ みののかみ もりひで)や保土原左近行藤(ほどはら さこん ゆきふじ)らは必死に説得しますが、阿南姫は聞く耳を持ちません。

「我が兄・左京大夫(さきょうのたいふ。岩城親隆)の岩城家は佐竹と連合してなお抗戦の姿勢を崩しておらず、我らもこれに合力(ごうりき)致します!」

※当時、岩城親隆は重病に倒れ、家督はその嫡男・岩城常隆(つねたか)が継いでいました。

これを聞いた政宗は「しょせん女子(おなご)がいっときの感情で意固地になっているだけのこと……やむを得まい、軽くもみ潰してやろう」と須賀川城を攻め立てます。

その攻勢に恐れをなした保土原左近はあっさりと伊達に寝返って城攻めの先鋒となり、勝負はすぐに決するかと思われました……が。

「もうかれこれ……四月(よつき)も経つぞ……!」

須賀川城を攻めあぐねた伊達勢(イメージ)。

須賀川城の士気は旺盛、また兵糧も十分な蓄えがあったため、籠城戦は4ヶ月以上の長きにわたって繰り広げられたのでした。

「よいか!敵は城主が女子と侮っておるが、隙を衝けば男子(おのこ)も女子も関係なく討ち取れる!常山の蛇(じょうざん※)が如く柔軟に応ずれば、いかな大軍とてやがて打ち崩せようぞ!」

(※:常山に棲む蛇は、敵が頭を打とうとすれば尾を繰り出して敵の背後を攻撃し、尾を打とうとすれば頭で、真ん中を打とうとすれば頭と尾が緊密に連携して敵を倒したという兵法書『孫子(そんし)』の故事から、陣形に隙がない様子を表す)

阿南姫の叱咤激励にますます昂揚。岩城・佐竹の援軍とも巧みに連携して勇猛果敢な戦さぶりを見せた須賀川城兵ですが、攻めあぐねた政宗は猛将・浜尾豊前守宗康(はまお ぶぜんのかみ むねやす)を調略します。

「……おのれ、豊前め……!」

宗康の寝返りが決定打となって天正十七1589年10月26日、ついに須賀川城は陥落。阿南姫たちは捕らわれの身となってしまいました。

意地でも政宗の世話にはならぬ!阿南姫の晩年

「くっ……殺せ!」

政宗の面前に引き出された阿南姫は、なおも抵抗の意思を示しましたが、もはやその術もなく、実母・久保姫(くぼひめ)の住む杉目城(すぎのめ。現:福島県福島市)に身柄を移され、手厚くもてなされます。

「おぉ、姫や……!」

阿南姫が二階堂盛義に嫁いで以来、数十年ぶりの再会となりましたが、あくまでも伊達家の庇護下に置かれることをよしとせず、甥の岩城常隆を頼って磐前郡(現:福島県いわき市)へ移住。

晩年の阿南姫が恃みとした甥・佐竹義宣。Wikipediaより。

翌天正十八1590年に常隆が亡くなると、今度は甥の佐竹義宣(さたけ よしのぶ。蘆名義広の兄)を頼って常陸国(現:茨城県)へ移り住み、10年ほどそこで過ごしました。

やがて慶長七1602年、関ヶ原の戦いで石田三成(いしだ みつなり)率いる西軍に与した(と言うより、道義を通して東軍に与しなかった)ことを咎められた義宣が出羽国秋田郡(現:秋田県秋田市)へ転封されると、それに同行します。

秋田への道中、須賀川を通りがかった阿南姫は、郷愁に駆られて暇を乞い、その年の7月14日に62歳で病没しました。

戒名は大乗院殿法岸秀蓮大姉(だいじょういんでんほうがんしゅうれんだいし)、墓は須賀川にある二階堂家の菩提寺・長禄寺(ちょうろくじ)にあり、今も夫や二階堂一族と共に、須賀川の民を見守っています。

【完】

※参考文献:
芳賀登ら監修『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993年
垣内和孝『伊達政宗と南奥の戦国時代』吉川弘文館、2017年

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