仙台開府は伊達政宗と徳川家康のまさかの共同事業!?:江戸時代の地理風水を駆使した都市設計【3】 (2/4ページ)
1600年の関ヶ原の戦いの結果、それまで飯野平城を居城としていた岩城氏が追放され、1602年に徳川幕府譜代の鳥居忠政が飯野平に転入した。鳥居忠政は、都市名を戦国時代までの「飯野平」から、岩城の「いわ」の字を変更して「磐城平」に改めて磐城平藩を樹立し、飯野八幡宮を現在地である八幡小路に移設し、その飯野八幡宮の跡地に磐城平城の建設を命じた。城は1603年に着工し、12年の歳月を費やして1615年に梯郭式平城を完成させた。
天守は造られず、本丸の三層櫓がその代わりとなった。その姿は、「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われた。また、水戸を徳川頼房の本拠地にさせたのと同じく、磐城平を鳥居忠政の本拠地とさせた主な目的は、仙台を本拠地とする伊達政宗への牽制であった。wikipediaより
飯野平城の15代当主城主岩城重隆は、政宗の祖母である久保姫(栽松院)の父親である。家康は岩城氏を追放して鳥居忠政を転入させるが、その場所からわざわざ現在地(直線距離で約2km北東)へ城を移設しているのである。
きっちりとレイライン上に置きたかった、と思わざるを得ません。
忠政の転入は、仙台開府とほぼ同時期であることから、家康は江戸城下を整備するとともに鬼門としての最大限の機能を奥州にまで伸ばしたのではないだろうか。
東西ラインの山形城もまた、鳥居忠政が磐城から転入している。忠政以前は、政宗の母(義姫)の実兄・最上義光の城だった。
元和8年(1622)、最上家が改易となり鳥居忠政が改修し1636年(政宗没年)まで城主となっている。
このように、仙台藩のレイライン上には、常に家康公の足跡が見て取れる。