田中角栄「怒涛の戦後史」(26)元首相・大平正芳(上) (2/3ページ)
自民党の勝利、政局の安定を取り戻したのは、ここでは大平の死との引き替えの「弔い合戦」ではあったが、衆参ダブル選挙を選択させた田中の炯眼ぶりも、また光った。
大平の生前、田中は親しみを込めてこんな“大平評”を口にしていた。
「あいつは、政治家というより宗教家だ。俺は現実的な政治家だが、あいつは哲学が先にくるんだ。しかし、“讃岐のヌカ漬”と同じで、噛んでいると甘みが出てくる。俺より本を読むからな。どうしてもあいつには甘くなってしまう」
一方の大平は、「角さんは凄い。努力家で、誰もかなわない鬼才の人だ」と言っていた。年齢は田中より8歳年上だが、「兄貴」と呼ぶこともあった。田中は強大無比の人脈で知られていたが、大平以上に心を許した政界人はいなかった。大平を生涯の「盟友」として、向き合ったのだった。
★似た生いたちの二人
世に生涯の「盟友」と呼べる友人がいることは、これ以上、人生を豊かにしてくれることはない。しかし、いくら親しい友人であっても、「盟友」関係まで行くことはなかなか難しいものである。その条件が、二つほどある。
一つは、互いの生いたち環境が似ていること。二つは、人物として自分にはない、尊敬できる部分があるということである。後者の「尊敬」という部分では、前述した互いの評価の中でうかがうことができるが、前者については、次のような“共通点”があった。
大平は香川県の農家の生まれだが、6人の兄弟姉妹もあって苦しい家計の中で育った。つまり「讃岐の貧農の息子」である大平と、「越後(新潟県)の馬喰の息子」である田中は、共に努力で世に出てきた。
また、田中は最愛の長男であった正法が5歳で病没して悲嘆に暮れたが、大平もまた長男・正樹を26歳のまだこれからというときに亡くしている。
正樹は大平と同様、クリスチャンの洗礼を受け、慶應義塾大学法学部を卒業した。その後、神崎製紙に勤めたが、世界の見聞を広めるために一人で海外を回っていた。これは、やがて父親の「後継」との含みもあったようだが、オーストリアのウィーンで突然の歩行困難となった。診断結果は難病のベーチェット病で、2年近くの闘病生活の末に亡くなった。