田中角栄「怒涛の戦後史」(26)元首相・大平正芳(上) (1/3ページ)
昭和55(1980)年6月6日、心筋梗塞の疑いで虎の門病院に入院中の大平正芳首相は、ベッドの中で側近の一人であり、自民党の筆頭副幹事長だった田中六助に小さく言った。
折から、自民党内は田中派、大平派の主流派と、福田(赳夫)派、三木(武夫)派ら反主流派との対立が収まらず、それを引きずる中で史上初の衆参ダブル選挙に突入していた。大平はそうした心労、遊説などの強行軍も手伝ってか、選挙戦のさなかに入院を余儀なくされていた。
大平はまた、選挙後の政権基盤をどうするかでも頭を抱えていた。党内融和に努める一方で、選挙結果によっては野党との連携も含めた政界再編の必要性も出てくるかもしれない。政局の分析、にらみが抜群の田中角栄が、そのあたりをどう判断するか、話し合ってみたかった。この衆参ダブル選挙という選択も、田中の「これで行けば必ず勝てる」との強い進言を受け入れたものだったのだ。
その頃、一方の田中は、田中派議員の応援要請で全国を遊説中であった。6月11日、折から自らの選挙区の新潟にいた田中は、大平の病状が芳しくないとの連絡を受け、長岡から予約していた特急「とき」(その頃はまだ上越新幹線は工事中だった)をキャンセル、急きょヘリコプターをチャーターして東京に舞い戻った。ところが、虎の門病院前は大勢の報道陣が張っており、こうした中で田中が来れば大混乱は必至、ために田中は翌早朝に見舞うことにした。
しかし、日をまたいだ深夜、大平の容体は急変し、午前5時54分、心筋梗塞によって逝去した。その一報を目白の自宅で受けた田中は、「呆然と立ちつくし、虚空をにらんではらはらと涙を流した」(『殉職総理』杉田望・大和書房)そうである。その後、大平の遺体と向かい合った田中は、ただ号泣するのみだったとされている。
それから10日後となる6月22日の投開票日、自民党は衆参とも圧勝した。自民党本部には大平総裁の遺影が掲げられ、そのもとで候補者の名前の上に次々と赤いバラが咲き始めた。結果は、衆院が追加公認を含めて286議席、半数改選の参院が69議席を獲得、これにて与野党の伯仲状態は解消された。