歴代総理の胆力「橋本龍太郎」(2)「硬構造ビル」政権の限界 (1/2ページ)

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歴代総理の胆力「橋本龍太郎」(2)「硬構造ビル」政権の限界

 橋本内閣は、自民党が社会党の村山富市を「自社さ」3党連立政権の首相に担ぎ、小沢一郎が率いた非自民連立政権から政権を奪還、村山内閣がその役目を終えたのちに発足した。その橋本政権スタート時は、「若武者」登場もあってか国民人気も高かった。

 政権の前半は、なるほど「仕事師」ぶりを発揮した。外交では、沖縄の普天間飛行場の返還を、クリントン大統領との間で「日米安保の再定義」の位置付けとして確認した。これは歴代の政権が揃って“逃げ腰”だったにもかかわらず、官僚に任せず自ら決断したものだった。

 また、内政では行政、財政、金融システム、経済構造、社会保障構造、教育の「6大改革」を掲げ、時代の変革による必要性に果敢にチャレンジした。とくに、各省庁が嫌がる行革では、内閣府の設置、省庁の統廃合など中央省庁の1府12省庁の再編実施を果たしてみせたのだった。

 しかし、政権後半は「山一証券」破綻に象徴される「平成恐慌」の中、橋本は先の「6大改革」のうちの財政改革にこだわったことで、結局、これが政権の命取りとなった。

 財政再建のためとして増税の必要性に固執、折からの参院選で惨敗し、引責辞任を余儀なくされたということだった。選挙前に、自民党内の「選挙に勝てない」コールに負けて増税策を引っ込めたものの、こうした政策転換が逆に政権の信頼感を失わせる形になったのである。

 残念だったのは、他の自民党内派閥はもとより、当時の所属の小渕(恵三)派からも引責退陣への反対論がほとんど出なかったことだった。

 当時の小渕派のベテラン議員は言っていた。

「あれだけ政策に通じ、頭の切れも抜群だったのに、人望がなかった。気位が高く、向こうっ気が強い自信家だから、筋が違うとなると誰に対しても徹底的にやり込める。

 相手を土俵の外まで追い出してしまうから、かわい気がないということだった。

 だから、橋本には人が集まらず、子分ができなかった。要するに、結局は“一匹狼”で終わってしまった。外からのエネルギーを吸収できない『硬構造ビル』の政権だっただけに、“激震”には耐えられなかったということだった」

 無念の退陣だった橋本は、小渕が死去したことで派閥を引き継ぎ橋本派としての会長に就いた。

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