鎌倉幕府執権北条時政が加担した将軍暗殺計画の裏に「後妻の影」! (2/3ページ)

日刊大衆

 こうして一三人の幹部のうち、時政の最大のライバルだった比企を葬り去ったことで、彼は好機とばかりに政子と謀り、彼女の子であり比企能員の娘婿むこでもある頼家を出家させ、その弟である実朝を三代将軍に据えて、自身は執権の職に就いたとされる。

 こうした中、頼家は翌元久元年(1204)七月に伊豆の修善寺で殺害され、わずか一二歳の将軍実朝を擁した時政と政子、そして、義時の三人の足並みに乱れはないと思われた。

 だが、一三人の一人だった大江を抱き込んでライバルらしき勢力がいなくなり、北条一族が幕府の権力を掌握するという目的が達成されたことで、三人の思惑が次第にすれ違うようになった。特に時政は当時、六六歳の高齢にもかかわらず、隠居する気配がなく、四二歳の働き盛りだった息子の義時はフラストレーションが溜まっていたのだろう。

 実際、すでに比企一族が滅んだ頃から対立の兆しがあり、その種を蒔いたのが他ならぬ時政の後妻である牧御方だった。そもそも彼女は勝気で驕慢な性格とされるように、継娘の政子とそりが合わなかった。

 こうした中、かつて頼朝に重用され、比企の乱でも手柄を立てた牧御方の娘婿である平賀朝雅が波乱を巻き起こす。というのも、彼が源氏一族だったことから、実朝がいなくなれば、自身が四代将軍に就く可能性があったためだ。

 とはいえ、時政、牧御方、朝雅の三人と政子と義時の対立がむろん、一気に先鋭化したわけではない。実際、元久二年(1205)六月、時政と朝雅が有力御家人だった畠山重忠の追討を企てたとき、その大将に任じられた義時は標的と昵懇の間柄だったとされながらも父に従っている。

 そもそもこの追討計画は京都守護として上洛していた朝雅が、重忠の長男である重保と酒席で口論となったことが引き金。実際、武蔵国を支配しようとする時政が、武蔵国留守所惣検校職だった重忠の排除を狙ったものだったとされる。

 だが、時政と義時の軋轢はその後、牧御方が朝雅を四代将軍とするために実朝を殺害しようとしたことから決定的となった。

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