鎌倉幕府執権北条時政が加担した将軍暗殺計画の裏に「後妻の影」! (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 伊豆国(静岡県)の豪族に過ぎなかった北条氏が事実上、鎌倉幕府を支配することができた要因は、北条時政の長女である政子が当時、伊豆に流されていた源氏の棟梁・源頼朝の妻となり、一族として苦難を共にしたことに尽きる。

 だが、初代将軍の頼朝が建久一〇年(1199)一月に死去したあとに幕政を担った時政は元久二年(1205)閏七月、息子である義時に政界を追われた。はたして何があったのか――。

 時政らが、鎌倉幕府の精神的な支柱だった頼朝が死去したあと、集団指導体制に乗り出した辺りから話を始めたい。当時、幕府の大きな役割は御家人の土地を巡る紛争の解決で、時政は頼朝の死から三ケ月後に政子と謀り、幕府に対して提起された訴訟はすべて、幹部一三名による合議で採決すると決定。再来年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のタイトルにもある通り、その顔触れは時政と義時の父子を含め、比企能員、安達盛長、和田義盛、梶原景時、三浦義澄、大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、足立遠元、八田知家幕府開創の功臣と頼朝の側近を務めた事務官僚ばかりだった。

 こうした中、功臣のうち、御家人に嫌われていた梶原がまず追討され、次いで高齢だった三浦と安達が死去。抜きん出るようになった時政父子にとっては、次第に比企が目障りとなった。その彼は頼朝の乳母だった比企尼の甥であり、娘である若狭局が二代将軍の頼家の妻だったことから、初代将軍の舅だった時政にすれば、是が非でも排除しなければならない存在だった。

 すると、時政は頼家の病に乗じて謀略を巡らせ、建仁三年(1203)九月、仏像供養を口実に彼を私邸に招いた。むろん、比企の息子らは反対。だが、彼は時政の謀略に引っ掛かって殺害されてしまった。そのことから一族は兵を挙げたものの、政子の弟である義時ら御家人に討たれた(比企の乱)。

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