全責任は拙者にござる!戊辰戦争に敗れて切腹した新選組隊長・森常吉が守り抜いたものとは?

「社長……ここは、私が腹を切りましょう」
「専務!」
会社のピンチを乗り切るため、重役が然るべき責任をとることを「腹を切る」などと言いますが、大抵は辞職する程度で、命に係わることは稀でしょう。
しかし、かつては御家の存続を賭けて、重臣が文字通り腹を切り、命を捨てることもまた奉公の一つでした。
今回はそんな一人、幕末に活躍した新選組隊長・森常吉(もり つねきち)のエピソードを紹介したいと思います。
新選組隊長として、箱館戦争で決戦に臨む常吉は江戸後期の文政九1826年6月12日、伊勢国桑名(くわな。現:三重県桑名市)藩士・小河内殷秋(おごうち ただあき)の長男として誕生しますが、生家ではなく子供のいなかった伯父の森家を継ぐことになります。

元服して陳明(つらあき)と改名。桑名藩に出仕するようになると、御馬廻、横目、御使番、大目付を歴任する出世コースを歩み、桑名藩主・松平定敬(まつだいら さだあき)が京都所司代として出張している時は、公用人(留守居役)の筆頭として朝廷や諸藩との外交責任者を務めました。
そんな常吉でしたが、やがて討幕の機運が高まった慶応四1868年1月、戊辰戦争(ぼしんせんそう)が勃発すると、徳川将軍家にゆかりの深い桑名藩は旧幕府側として参戦します。
しかし、鳥羽伏見の戦いに敗れた将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)が江戸に退却してしまい、それに随従した主君・松平定敬を護衛するため、常吉は同僚の関川代次郎(せきかわ だいじろう)らと共に江戸へ向かいました。
5月15日の上野戦争では常吉らも旧幕府軍に参加して新政府軍を迎撃。ここでも武運拙く敗れてしまいますが、徹底抗戦の意志を曲げない主君・松平定敬を守りながら江戸から北上、蝦夷地(現:北海道)を目指す道中、新選組(しんせんぐみ)に入隊します。
新選組と言えば、京都洛中の治安維持に活躍した「人斬り集団(実態はともあれ)」として知られていたものの、さる4月25日に局長・近藤勇(こんどう いさみ)は新政府軍によって処刑されており、かつての勢いはすっかり失われていました。
とは言っても京都での武勇伝はなおも人々を震撼せしめており、蝦夷地で反転攻勢の陣を布くべく、常吉らは新選組に希望を託すのでした。
かくして明治元1868年12月15日、箱館(はこだて。現:北海道函館市)を拠点として旧幕臣・榎本武揚(えのもと たけあき)らによる「事実上の政権(いわゆる蝦夷共和国)」が誕生すると、新選組を率いていた土方歳三(ひじかた としぞう)は陸軍奉行並に昇格。
常吉はその後釜として新選組隊長(頭取改役)を拝命、新選組隊士150名を率いて新政府軍を迎え撃つこととなりました。

敢然と斬り込む旧幕府軍。永嶌孟斎「箱館大戦争之図」明治時代。
渡島半島を舞台に激戦を繰り広げながら、明けて明治二1869年。次第に敗色が濃厚となった旧幕府軍は箱館へと追い詰められ、5月11日には精神的支柱であった土方歳三が討死してしまいます。
それでも抵戦を継続した新選組ですが、5月18日に榎本武揚ら幹部が新政府軍に降伏し、ここに箱館戦争および戊辰戦争は完全に終結。しかし、常吉にとっての戦いは、むしろこれからでした。
全責任は拙者にござる!腹を切って桑名藩を守り抜く「えっ、殿が切腹に!?」
……実は松平定敬は4月に箱館を脱出しており、従者と共に横浜経由で上海へ渡航したまでは良かったのですが、旅費が底を尽いたために国外逃亡を断念してとんぼ返り、5月18日に降伏していたのです。
この時点でまだ無事でしたが、新政府軍は特に幕府への忠義が篤かった桑名藩を「会津藩に並ぶ朝敵」として激しく敵視しており、このままでは切腹が現実となってしまいます。
ここで現代的な感覚だと「何だよ、みんなまだ戦っていたのに逃亡して、おカネがなくなったからおめおめと戻って来たのかよ。ダセェ」などと思ってしまうかも知れませんが、常吉は違いました。
「今こそ、主君のお役に立てる『命の使いどころ』である!」
投獄されていた常吉は、新政府軍に対して「藩主・松平定敬をはじめ、桑名藩における全ての責任は拙者にござる」と申し出ます。賊軍となった諸藩では多くの者が責任逃れに終始していた中、その立派な態度は忠臣の鑑として高く評価されたようです。
新政府軍の中には「桑名藩憎し」、ことに「家臣を見捨てて逃げ出した松平定敬を生かしておくべきではない」という声も強くありましたが、最終的には「ここは忠義の心映えをこそ尊重すべき」として、常吉は旧桑名藩邸で切腹を申し付けられたのでした。

「なかなかに おしき命に ありなから 君のためには なにいとふへき」
【意訳】なかなか惜しい命ではあるが、主君の為とあれば何も厭うことはない「うれしさよ つくす心の あらはれて 君にかはれる 死出の旅立」
【意訳】忠義の心が認められ、主君の代わりに死ねるとは、奉公人冥利に尽きるではないか
明治二1869年11月13日、常吉は二首の辞世を遺し、44歳の生涯に幕を閉じたのですが、その甲斐あって、旧主・松平定敬は明治五1872年1月6日に赦免。明治四十一1908年に61歳の天寿をまっとうできたのでした。
エピローグ常吉の死によって桑名藩は救われましたが、戊辰戦争の全責任を負った森家は取り潰しとなってしまいます。しかし、長男の三木太郎(みきたろう)は若月(わかつき)と苗字を改め、その子孫は令和の今も存続しているそうです。
命に代えて大切な者を守り通した常吉の忠義……その覚悟と心映えは、明治維新によって多くの日本人から失われてしまった武士の精神を、末永く伝えていくことでしょう。
※参考文献:
水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩―敗者の維新史』八木書店、2011年4月
好川之範・近江幸雄 編『箱館戦争銘々伝 下』新人物往来社、2007年7月
好川之範『箱館戦争全史』新人物往来社、2009年1月
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