「狂人」といわれた男。徳川3代将軍・家光の実弟「徳川忠長」28年の生涯【その1】 (2/2ページ)

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ただし、後継を決定する過程において何らかの形で家康の意向が働いた可能性は高いとされている。

忠長の父、徳川2代将軍徳川秀忠(Wikipediaより)

甲府藩主へ

将軍の後継争いは家光が指名される形で決着した。1616年、忠長は甲府23万8000石を拝領し甲府藩主となる。忠長は一大名に列し、正式に将軍後継となった家光との立場の差は明確になった。

この時期の忠長について新井白石は自著である「藩翰譜(はんかんふ)」に以下のような記載を残している。

”1618年、12歳の折、忠長は自身が撃ち取った鴨で作られた汁物を父・秀忠に振舞った。秀忠は喜んだが、鴨が家光の居住地である西の丸の堀で捕らえられたものだと知った秀忠は、時期将軍である家光の居住区に鉄砲を撃ち込んだ忠長の行為に激怒した“

上述の記載は忠長が父・秀忠からの信頼を欠いた幼少期のエピソードとして取り上げられることが多いが、藩翰譜の成立は1702年であり、80年以上も後世に書かれた書物の信憑性には議論の余地が残る。

【その2へ続く】

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