“忠臣蔵”江戸城松の廊下刃傷事件浅野内匠頭「キレた理由は悪口」!

赤穂事件、いわゆる忠臣蔵における最大の謎は元禄一四年(1701)三月一四日、勅使饗応役となった浅野内匠頭長矩がなぜ、江戸城内松の廊下で不意に吉良上野介義央に斬り掛かったのか――だろう。これまでにもこの連載で何度か取り扱った事件の最大の謎に、新たな視点を交えながら迫ってみたい。
当時、幕府は毎年正月に朝廷に使者を遣わし、年賀の挨拶を実施。その答礼として朝廷から天皇の使者(勅使)と上皇(院)の使者(院使)を迎えることが慣例だった。事件が起きた年も東山天皇と霊元上皇の勅使と院使を迎え、答礼の儀式や使者を慰労する儀式などが滞りなく終了。残るは勅使と院使が五代将軍徳川綱吉に暇いとまの挨拶をする儀式だけだった。実はこの年、幕府が朝廷に遣わせた年賀の使者が高家筆頭の吉良上野介だった。
高家は幕府の儀式や典礼を司る役職で、「高」は室町幕府の創始者である足利尊氏の「たか」に由来。尊氏はもともと「高氏」と称し、吉良家は足利一族の名門だったことから高家筆頭の家格を誇り、官位も従四位上と高かった。
一方、朝廷の答礼の使者を接待する勅使饗応役と院使饗応役は、それぞれ赤穂藩主の浅野内匠頭と伊予吉田藩主の伊達宗春で、二人は儀式に際し、吉良上野介から指南を受ける立場だった。
こうして、その日を迎える。三月一四日の巳の下刻(午前11時頃)、将軍綱吉が江戸城内の白書院で勅使と院使から暇の挨拶を受けた。この白書院は本丸御殿の大広間と松の廊下で繋がり、惨劇は将軍のすぐそばで、しかも、直後に発生。幕府の旗本で留守居番だった梶川与惣兵衛が当時、大奥の取締りを担当し、綱吉の正室鷹司信子についていたことから事件を目撃した。
彼は留守居番の部屋に顔を出し、吉良上野介から伝言があることを知ったために殿中を探し回り、白書院の近くでその姿を見つけ、小坊主に彼を呼びに行かせたのだ。すると、二人が松の廊下で話し始めたとき、吉良の背後から「この間の遺恨覚えたるか!」という怒声が響き、男が斬り掛かったという。
実際、与惣兵衛の記録『梶川氏筆記』にはこうある。「(誰かが)この間の遺恨覚えたるかと声をかけ、切り付け申し候(中略)上野介これはとて、後ろの方へ振り向き申され候ところをまた切り付けられ候故、われら方へ向きて逃げんとせられしところをまた二太刀ほど切られ申し候」
つまり、吉良は「遺恨あり!」と叫ぶ浅野に襲撃され、驚愕して声がするほうを振り返った瞬間に再び、斬りつけられ、さらに逃げようとしたところを二太刀も振るわれたことが分かる。
その一方で、浅野が声を上げたとはいえ、背後から斬り掛かったことから相当に激昂していたことも垣間見える。実際、浅野は頭に血が上りやすい性格だったという説もあり、当日は精神的に不安定だったとされる。彼には「痞(一種の心身症)」の持病があったとする史料も残り、事件三日前には藩医である寺井玄渓から薬を処方されていた。
こうした中、当日は「陰天(曇り空)」だっただけに、微妙な空模様が疾患を誘引し、怒りを爆発させた可能性が残るものの、むろん、それだけでは説明できない部分もある。事件の証言者である与惣兵衛はその発生前、白書院と反対側の大広間の角付近に座る浅野を見た。そのために自身がこの日、鷹司信子の使いを務めていることを彼に告げ、「諸事よろしきよう頼み入る」と伝えた。すると、浅野は「心得候」と言葉を返したといい、この時点では至って冷静だったことが分かる。
にもかかわらず、浅野は間もなく吉良の姿を見るなり激昂し、いきなり斬り掛かった。だとすれば、このわずかな時間にいったい、何があったのか。
そのヒントが『堀部弥兵衛金丸私記』にある。堀部弥兵衛金丸は有名な堀部安兵衛の義父で、赤穂浪士四七士の一人。その彼の私記に次のように書かれていたのだ。
■将軍綱吉が悪評を知り浅野を暗君と見なした
「(吉良が)殿中において諸人の前に(殿の)武士道立たざる様に至極悪口致し候由、(殿は)これによりその場を逃し候ては後々までの恥辱と存じ、仕らすと存じ候」
事件当日、吉良は他にも人がいる前で浅野の悪口を言い放ち、それは彼の武士道すらも成り立たなくなるほどにひどい内容だったという。実際、武士道をけなしたとなれば、よほどの悪口。殿中であるとはいえ、浅野がそれを許したら、それこそ武士の名折れとして、彼が後々、世間の批判に晒されかねない。
むろん、あくまでも浪士サイドの情報だが、仮にこれが事実であれば、殿中で喧嘩を売ったのは吉良となり、浅野がその暴言を許すことができずに斬りつけたことになる。当然、殿中における刃傷沙汰は言語道断とはいえ、一方で、他の人がいる前で聞くに堪えない暴言を吐くことも許されるものではない。そうした意味で幕府は喧嘩両成敗の定法に則って双方を処罰するべきだったと言えるのではないか。
だが、吉良はお咎めなし。浅野は当日中に切腹となり、赤穂藩が改易となったため、旧藩士の怒りは頂点に達し、吉良邸討ち入りに事態が悪化したのだ。
では幕府はなぜ、浅野だけを処罰したのか。元禄三年(1690)に幕府の隠密が収集した調査内容を基に編纂したものとされ、当時の諸大名二四三人の性格や行跡が詳細に報告された『土芥冦讎記』に、浅野評がこう書かれている。「女色好む事、切なり。ゆえに奸曲のへつらい者、主君の好むところにしたがいて色よき婦人を捜し求めて出す輩、出頭立身す」
浅野が好色で、自身の好む女性を連れてきた者だけを出世させたという内容だ。当然、将軍綱吉も目を通したはずで、内容が事実であるかはさておき、儒教にはまった綱吉にすれば、浅野は暗君の代表に映ったはずで、悪評が不幸な結末を招いたと言える。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。