美少年に惚れやすく…男色が災いし自家を滅亡まで追い込んだ戦国大名「蘆名盛隆」の恋バナ

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美少年に惚れやすく…男色が災いし自家を滅亡まで追い込んだ戦国大名「蘆名盛隆」の恋バナ

日本における男色は仏教の広まりと同時に広まり、戦国時代になると非常に盛んになりました。男色は比較的相手を選び放題なので自由な恋愛ができる反面、三角関係や嫉妬によるもつれもありました。

江戸時代以前の男色は決して「快楽のため」だけではない?恒例の儀式や同志の契りを交わす意味も大きかった

東北の戦国大名、蘆名盛隆(あしな-もりたか)は美少年に惚れやすいこともあってか数々のもつれを引き起こした大名です。

一体どのような愛憎劇が盛隆の周りで繰り広げられていたのでしょうか。

今回は盛隆が引き起こしたもつれを、生い立ちを含みつつ紹介していきます。

イケメンで敵に一目惚れされた盛隆

盛隆は二階堂氏の出身で人質の身でありながら、天正3年(1575)に蘆名盛氏(あしな-もりうじ)の養嗣子(家督を継ぐ養子)として蘆名氏を継ぎます

蘆名盛氏/Wikipediaより

なぜ人質だった盛隆が養嗣子となったのかというと、盛氏の子で当時の蘆名氏当主、蘆名盛興が嫡男を持たずに若くして病死してしまったことが要因でした。

蘆名氏には盛興の跡を継げる後継者がいなかったので、人質の盛隆に白羽の矢が立ったということです。

そのことから考えると盛隆は当主としての素質を持っていたと推測できます。

そして20歳を迎えた天正8年(1580)、養父の盛氏がなくなると蘆名氏18代目当主として本格的に実権を掌握しました。

盛隆はかなりのイケメンで知られ、坂東太郎の異名を持つ佐竹義重との戦中に義重が盛隆に一目惚れをしていまい、双方思いをつづった恋文を続けた結果、和睦したという逸話が残っています。

もつれが謀反まで発展した!?

そんな盛隆も一目惚れをしやすいたちで、ある時蘆名四天王の松本氏輔の子である松本行輔(まつもと-ゆきすけ)が初陣に出るための許可を貰いに来た際に一目惚れ。

初陣で討ち死にしてしまっては惜しいと感じた盛隆は行輔を戦には出さず、留守を命じました。

武功を挙げて父の名に恥じない活躍をしたいのに、戦に出られないことが行輔にとって日に日に不満となりました。

そして行輔はこの不満を解消するために、栗村盛胤(くりむら-もりたね)と関係を持ってしまいます

当然、このことを聞いた盛隆は大激怒。2人を殺害しようとしますが家臣に止められ、所領の取り上げと家督相続の中止を行輔に処しました。

これには行輔もさすがに怒り心頭。その後盛隆が留守中に謀反を起こし、盛胤と蘆名氏の居城である黒川城を占拠してしまいました。

しかしすぐに鎮圧され、2人は処刑となりました。

男好きの果てには

先の一件から盛隆は男色を控えるかと思いきや、懲りずに美少年たちにちょっかいを出し、それに嫉妬する人物まで現れました。その人物は大庭三左衛門(おおば-さんざえもん)で元は二階堂氏の者でしたが、盛隆たっての希望で盛隆の家来となりました。

最初は盛隆から寵愛されていましたが、時が経つにつれ疎まれていきます。そして、盛隆は三左衛門のことを「冷めて(醒めて)は食えぬ」の意味を込めて「鴨汁」と裏で呼んでいました。

巡り巡ってこのことを知った三左衛門はひどく落ち込み、盛隆を恨ましく思い始めます。さらに盛隆は面白がって三左衛門に「御前に出る朝ご飯は鴨汁なので、よかったら食べていきますか?」と小姓に伝言させる悪質な嫌がらせをします。

この出来事を境に三左衛門は今まで我慢していたものがプツンと切れました。

そして天正12年(1584)、盛隆は三左衛門に暗殺され、24歳の短い人生を終えました

その後の蘆名氏は盛隆の死によって衰退していき、天正17年(1587)の摺上原の戦いで伊達政宗に敗北したことがきっかけで滅亡を迎えています

伊達政宗/Wikipediaより

最後に

すぐ男子を好きになり時間が経てば、ためらいも手放してしまう盛隆は熱しやすく冷めやすい性格だったと思います。

また、自由が得られない人質の身から大名家の当主となったので、欲しいものは必ず手に入れたい一種の独占欲みたいなものも持っていたことも考えてしまいます。

何にしても飽きたらポイッではなく、飽きても家臣として重用できていたら蘆名氏は衰退してはいなかったと思ってしまいます。

参考:長谷川ヨシテル『ポンコツ武将列伝』

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