神奈川県平塚市の語源は?この地で薨去したやんごとなき姫君のエピソード (4/4ページ)

Japaaan

(※現代なら「上京」という分かりやすい理由がありますが、当時は東国と言えば蝦夷と呼ばれた野蛮人の蟠踞する未開の地と思われていましたから、それこそ婦女子はもちろん、男性であっても旅立ちには相応の覚悟が求められたようです)

……まぁ、地元の伝承がちょっと勘違いだったのでしょう(他の元号である可能性も調べてみたのですが、天安と勘違いしそうな元号はどれも時期が大きくズレていて、ちょっと非現実的でした)。

実際のところは(エピソードが史実として)兄・平高望が上総介として東国に赴任し、経営が軌道に乗りそうだったので妹・眞砂子も招いたものの、道中で病死してしまった、と言ったところなのでしょう。

終わりに

その後、高望は延喜二902年に西海道の国司として大宰府に転勤、そのまま現地で没します(延喜十一911年)が、その息子たちは東国に根を下ろし、坂東平氏の祖として活躍するのでした。

そんな兄や甥っ子、そして子孫たちの活躍を見ることなく相模国に散った眞砂子姫のエピソードは、地元の皆さんに愛されながら今日に伝わっています。

※参考文献:
蘆田伊人 編『新編相模国風土記稿』雄山閣、1998年4月
平塚市 編『平塚市史』平塚市、1985年4月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「神奈川県平塚市の語源は?この地で薨去したやんごとなき姫君のエピソード」のページです。デイリーニュースオンラインは、平高望平眞砂子平安時代平塚地名カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る