戦国時代、加藤清正を追い詰めた男装の女武者・お京の方の武勇伝【ニ】

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戦国時代、加藤清正を追い詰めた男装の女武者・お京の方の武勇伝【ニ】

前回のあらすじ

戦国時代、肥後(現:熊本県)の国衆「どもり弾正」こと木山正親(きやま まさちか)に嫁いだお京(きょう)の方は、二人の息子も授かって幸せな新婚生活を送っていました。

しかし相次ぐ戦乱によって夫は出陣、やがて南の薩摩(現:鹿児島県西部)から強豪・島津(しまづ)氏の侵攻を受け、次第に脅かされていくのでした……。

戦国時代、加藤清正を追い詰めた男装の女武者・お京の方の武勇伝【一】

秀吉の九州平定で島津氏が降伏、本領を安堵されたが……

その後も正親らは必死の抵抗を繰り広げましたが、いかんせん戦況は苦しく、盟友たちは次々と島津氏に降伏。いよいよ四面楚歌に陥っていた天正十四1586年、関白・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が九州≒島津征伐に乗り出します。

「……これで島津に勝てる!」

豊臣秀吉(左)から肥後国の支配を任された佐々成政。

正親らは率先して秀吉に臣従することで本領を安堵。天正十五1587年5月にはさすがの島津氏も降伏し、肥後国は秀吉の側近・佐々内蔵助成政(さっさ くらのすけ なりまさ)が支配することとなりました。

「まぁ、ひとまずは安泰かのぅ……」

聞くところによれば、秀吉は成政に対して「九州の支配については、在地の慣習や文化を重んじ、決して性急な変化を加えぬように」諭したそうですから、平和な暮らしの中で、徐々に生活が改善されていくのだろう……多くの者がそう思っていたことでしょう。

しかし、既に年老いて病を得ていた成政は、勢力基盤を確かなものにしておこうと功を焦るあまり、性急な検地を強行。年貢の負担が重くなったことにより、肥後国の国衆がこぞって不満の声を上げました。

「おい、関白様の話と全然違うじゃねぇか!」「おのれ内蔵助め、わしらを田舎者と見くびりおって!」「こうなったら、肥後国衆の意地を見せてやらぁ!」

天正十五1587年7月、ついに隈部刑部允親永(くまべ ぎょうぶのじょう ちかなが)・親泰(ちかやす)父子が隈府城(わいふじょう。現:熊本県菊池市。別名菊池城)に立て籠もって叛旗を翻します。

「内蔵助、討つべし!」続々と決起した肥後の国衆。

思わぬ叛乱に慌てた成政は急きょ討伐の軍勢を派遣しますが、攻略に手こずる内、肥後の国衆が次々と呼応。叛乱軍は最大で約35,000余にも膨れ上がりました。

決起に逸るばかりが勇気ではない……肥後国衆一揆への加勢を断る

しかし、後世「肥後国衆一揆(ひごのくにしゅういっき)」と伝えられた一大叛乱に、正親たちは与(くみ)しなかったようです。

「……刑部らに勝ち目はなか」

肥後の国衆は古来「お山の大将」気質が強く、誰かの下について協力することを極端に嫌う独立自尊の気質。後に「薩摩の大提灯、肥後の腰提灯」などと呼ばれるように、一つの大きな提灯でみんなを照らすより、各自で提灯を身に着けて気ままに行動したがるのでした。

一致団結して九州随一の精強さを誇った薩摩の島津氏ですら屈伏を強いられた豊臣の軍勢に、てんでんばらばらの肥後国衆が勝てる見込みはありません。

「何を女々しかことを!男なら、勝つ負けるよりも大切な事があろう!」

血気盛んな「肥後もっこす(※当時こう呼んでいたかは未詳)」たちが次々と一揆に加勢していく中で、留まることを決断した正親の葛藤は、並大抵ではなかった筈です。

「お京……」

みんなが立ち去った後から、お京の方が入って来ます。

正親の葛藤を理解し、寄り添うお京の方。

「……はい。血気に逸るばかりが勇気ではなく、家中や領民を安んずることもまた、惣領の務めにございますれば……」

「そなたにそう言って貰えると……少しは気が晴れる」

「あなた様のご決断は正しゅうございますし、また正しくなるよう、私どももお支えして参りまする」

果たして一揆は5か月後の12月に鎮圧され、首謀者らはその多くが処断されましたが、剛勇で知られた正親にとっては、居ても立っても居られない日々だったことでしょう。

【続く】

※参考文献:
国史研究会 編『国史叢書. 將軍記二 續撰清正記』国史研究会、1916年
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』吉川弘文館、2005年
松田唯雄『天草温故』日本談義社、1956年

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