夫婦そろって無念の最期…戦国時代、加藤清正を追い詰めた男装の女武者・お京の方【完】

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夫婦そろって無念の最期…戦国時代、加藤清正を追い詰めた男装の女武者・お京の方【完】

これまでのあらすじ

前回の記事

夫と息子の仇討ちに男装して出撃!戦国時代、加藤清正を追い詰めた男装の女武者・お京の方【四】

戦国時代、天正天草合戦(天正十七1589年。天草国衆一揆)にて討ち取られてしまった夫・木山弾正正親(きやま だんじょう まさちか)の仇をとるべく、甲冑に身を固め男装で出陣したお京(きょう)の方

「我こそは木山弾正なり!」

その雄姿に「すわっ、討ち取った筈の弾正が甦ったか」と胆を潰した夫の仇・加藤清正(かとう きよまさ)の軍勢は慌てて逃げ出し、お京の方はそれを追撃。

生きた心地がしない清正の背中に、彼女の槍先がジワジワと迫るのでした……。

あと一歩まで追い詰めたのに……夫婦そろって無念の最期

(あと少し……あと少しで夫と息子の仇を……っ!?)

清正の馬が潜り抜けた梅の枝を、自分も潜ろうとしたところ、兜の錣(しころ。後頭部からうなじを守る部分)が梅の枝に引っかかってしまいました。

「あっ!」

兜が埋めの枝に引っかかり、脱げてしまったお京の方(イメージ)。

次の瞬間、お京の方の兜が脱げ、その中にまとめ込んであった長い黒髪がほどけ、女性であることがバレてしまいます。

「何だ、女子(おなご)であったとは……人をさんざん驚かせおって!」

女性と判れば怖くない、とばかり踵を返した清正によって、お京の方はあっけなく討ち取られてしまったのでした。あと一歩のところまで追い詰めておきながら、夫婦そろって実に不運としか言いようがありません。

「おのれ、憎い梅の枝め……花は咲けども実はなるな!」

その時の梅は「兜梅(かぶとうめ)」として延慶寺(現:熊本県天草市)の境内に現代も残っており、たくさんの花が咲くものの(お京の方の呪いが効いているのか)実は一つもならないそうです。

かくして天草の叛乱軍は鎮圧され、首謀者の志岐豊前守鎮経(しき ぶぜんのかみ しげつね)が薩摩(現:鹿児島県西部)の島津(しまづ)氏を頼って逃亡したほか、多くの国衆が降伏。豊臣政権に対する反逆の芽は摘み取られていったのでした。

エピローグ・横手五郎の最期

さて、木山弾正もお京の方も、そして嫡男・傳九郎も討死してしまいましたが、物語はあともう少しだけ続きます。

そう……お京の方が出陣前に逃がした次男は永らく潜伏し、やがて横手五郎(よこてのごろう。横手は熊本市内の地名)と称して清正の元へ現れるのです。

熊本城。清正を暗殺するべく、横手五郎が潜入するも……。

清正が築き上げた名城として知られる熊本城の片隅、月見櫓のそばに変わった形の大石がありますが、これは五郎が城下を一望できる花岡山(はなおかやま)から首にかけて運んだと言われることから「首掛石(くびかけいし。重量約1.8トン)」と呼ばれます。

五郎は築城人夫に身をやつし、両親と兄の仇を討とうと清正の隙を窺っていたのですが、それを勘づかれてしまったため、井戸掘り作業中に生き埋めにされてしまいました。

しかし、1.8トンの大石を首にかけて運ぶような怪力の持ち主ですから、上からいくら岩を投げ込んでもすべて受け止め、投げ返されてしまいます。

「何という馬鹿力だ!」

手を焼いた清正が今度は土砂を流し込ませると、さすがの五郎も受け止め切れず、とうとう埋め立てられてしまったのでした。そんなわけで、五郎は今も熊本城のどこかに眠っているそうです。

こうして清正に立ち向かったお京の方たち一家四人は全滅してしまいましたが、彼女たちが示した武勇や心映えは、肥後国をはじめ多くの人々に伝えられ、今なお愛され続けています。

【完】

※参考文献:
国史研究会 編『国史叢書. 將軍記二 續撰清正記』国史研究会、1916年
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』吉川弘文館、2005年
松田唯雄『天草温故』日本談義社、1956年

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