幽霊のうわさが絶えない、内モンゴルの古代都市「カラ・ホト」 (5/9ページ)
1211年のモンゴルと中国の戦い image by:public domain/wikimedia
中国軍は15万の兵を3つに分け、それぞれ別ルートでゴビ砂漠の北へ進軍した。西の部隊は馮勝、東は李文忠、中央は徐達がそれぞれ率いた。
強大な軍だったが、このときは中国軍はモンゴルに負け、1635年に晋の時代になるまで、その後数世紀はモンゴルは明王朝にとって脅威になり続けた。
・カラ・ホトの幽霊伝説
カラ・ホト陥落について、もっと詳しい話は地元の伝説の中に見つけることができる。カラ・ホトにいたモンゴル軍のリーダーはカラ・バトール(黒い英雄という意味)という名の将軍だった。町の砦は非常に堅固で、中国軍はなかなかこれを武力で落とすことができなかったという。
そのため、中国軍はカラ・ホトを包囲して圧力をかけ続け、町の外を流れるエジン川を狙った。ここは町の唯一の水源だったため、カラ・ホトの井戸はまもなく干上がってしまった。モンゴル軍は、干上がって死ぬか、戦って死ぬかを選択しなくてはならなくなった。
The City that Died of Thirst
伝説では、このジレンマのせいでおかしくなったカラ・バトールが、家族を殺害し、自害したと言われている。