歴代総理の胆力「菅直人」(1)「イラ菅」の異名が付いた理由 (1/2ページ)
菅直人という元総理大臣の一端を物語る、こんなエピソードがある。
昭和56(1981)年秋の臨時国会。時の衆院の行政特別委員会で、社会運動家として鳴らした市川房枝女史とともに立ち上げた少数野党「社民連」の1年生代議士だった菅が、質問に立った。
国家予算の歳出項目に、国が都道府県にどれだけの補助金を出したかを示す「補助事業費」というのがある。国による、公共投資の目安となるものである。その配分上位は、東京、北海道、大阪、愛知といった大都市。当時14支庁が集まり、北海道開発庁まで置いていた北海道が、順位ともども大方ベスト5の常連であった。
ところが、昭和37年度に“異変”が起きたのだった。日本海側の一雪国であるハズの新潟が、一気に愛知の次の5位に躍進、その後は愛知を抜いて4位、ついには東京、北海道に次いで3位まで躍進するのである。新潟が5位に入ったのは、田中角栄の蔵相時、4位が自民党幹事長、3位が幹事長、通産相時、そして総理大臣のときだったのである。
ここでは、田中が実力者の階段を駆け上り、予算獲得に腕力を示したことが分かるのだが、菅が行政特別委員会の質問で、これにクレームをつけたということだった。
「田中角栄氏の出身地である新潟県は、他県と比べて補助金が断然多い。これは、どう見てもおかしいのではないか」
ところが、この委員会所属議員には田中派議員が多くおり、菅に猛烈なヤジを浴びせたのである。
「新潟は広いんだ。もっと勉強して来いッ」
「雪をどうする! それが政治というものだ」
このあとの質問はズタズタ、菅はくちびるを噛むようにして質問席をあとにしたものである。
あえて、若き日の菅のこうした例を引いたのは、菅という政治家のリーダーシップの根幹を見るためである。
すなわち、市民運動上がりらしく国民の不満が奈辺にあるかの直感力はなかなかだが、一方で大局観に欠け、独断専行に走るきらいがあるということだった。また、権力欲もなかなかのものがあるようであった。