引き裂かれた姉弟愛…。飛鳥時代に生きた姉・大伯皇女と弟・大津皇子の悲劇 【その1】

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引き裂かれた姉弟愛…。飛鳥時代に生きた姉・大伯皇女と弟・大津皇子の悲劇 【その1】

わずか24歳という若さで、謀反の罪により自決した悲劇の貴公子・大津皇子(おおつのみこ)

飛鳥時代、文武両道で容姿に優れ自由奔放な性格から多くの人々から信望を集めた人物です。けれども、将来を嘱望されていたにもかかわらず、皇位継承問題に巻き込まれ謀反のかどで捉われの身となり、自死に追い込まれてしまいました。

幼い頃から弟・大津皇子と寄り添い合うように育った姉・大伯皇女(おおくのひめみこ)は、その死を悲しみ、生涯を弟の魂を弔うことに捧げたと伝わります。

万葉集に伝わる二人の和歌も絡めながら、二人の悲劇を紹介しましょう。

弟・大津皇子のプロフィール

大津皇子 二上山墓
(写真:wikipedia)

弟・大津皇子は、天武天皇[大海人皇子(おおあまのみこ)]を父とし、大田皇女を母として663年に誕生しました。

大田皇女は、後に大津皇子に死を賜る持統天皇[鵜野皇女(うののひめみこ)]の実の姉にあたります。

系図
(illustration:ERI)

とても優秀な人物だった弟・大津皇子

大津皇子の人物像については、『懐風藻(かいふうそう)』によると「容姿端麗、筋骨隆々、学問優秀、性格寛大にして自由奔放、武芸百般」と、これ以上ない優秀な人物と褒めたたえています。

皇子の死後約30年後に成立した『日本書紀』にも同様なことが書かれていますので、あながち大げさな表現とはいえないでしょう。

しかしながら、それよりも30年後に成立した『懐風藻』や『万葉集』における大津讃辞は、悲劇的な最期を遂げた大津皇子に対して人々の想いが、少なからず反映されているのでは? と思われます。

詩歌などの文芸は大津皇子をはじまりとする

黄色く色づいた紅葉(写真:T.TAKANO)

『日本書紀』には、「詩賦(しふ)の興り、大津より始まれり」と書かれています。それほど、大津皇子は、漢詩や和歌の才能に恵まれていたとされます。

「経もなく 緯も定めず 未通女ら 織れる黄葉に 霜なふりそね」(万葉集 巻8 1512)

(訳:どれを縦糸とも横糸とも定めずに、少女が織りあげた黄葉に、どうぞ霜よ降らないで)

大津皇子が詠んだとされる一首です。

秋に色付く美しい黄葉を、仙女が織り上げた錦と見立て、「霜が積もることにより黄葉が枯れてしまわないように」との願いが込めているのでしょう。

ところが、この和歌には大津皇子の心情がよく表れているように思われるのです。

縦糸と横糸を人の織り成す絆と考えてみましょう。「私の周りの人々の絆でつむられた世界が崩れてしまいませんように」との意味にも取れます。

この歌を詠んだ当時、大津皇子を取り巻く人間関係に、なんらかの問題が生じていたのでしょうか?

縦の糸と横の糸が出会って織り成す(写真:photo-ac)

血筋の良さと優秀がゆえに謀反の罪をきせられた?

大津皇子の母は、天智天皇の娘です。それゆえに血筋の良さは天武天皇の皇子達の中でも群を抜いていました。

大津皇子に匹敵する血筋を持つのが、天武天皇の正妻である鵜野皇后(後の持統天皇)が生んだ草壁皇子(くさかべのみこ)です。

草壁皇子は、大津皇子より1年前に生まれたとされ、天武天皇の皇位継承者No.1の皇太子の地位にありました。鵜野皇后は草壁を溺愛、継母であり叔母でもありながら、そのライバルである大津に警戒心を抱いていたとされます。

天武天皇が亡くなった直後に、鵜野皇后が大津皇子に謀反の罪をなすりつけ抹殺したというのが一般に唱えられている説です。

姉・大伯皇女のプロフィール

宇治橋から伊勢神宮を望む(写真:T.TAKANO)

大伯皇女は、弟大津皇子に先立つ2年前、661年に生を受けました。母の大田皇女は、大伯皇女が7歳の時に亡くなります。後ろ盾となる母を亡くした大伯は、わずか5歳の弟と寄り添うように成長したと思われます。

弟に深い愛情を注いだ姉・大伯皇女

姉・大伯皇女と弟・大津皇子の年の差はわずか2歳差。『万葉集』などからうかがえるのは、大伯皇女が深い愛情を弟の大津皇子に注いでいることです。

弟の皇位継承にまつわる心配事は、絶えず大伯皇女を悩ませていたことでしょう。避けることができない運命の中で、懸命に弟を想う姉の姿には胸を打たれます。

初代の斎王として伊勢へ下向

壬申の乱(※1)で大友皇子(天智天皇の子)を滅ぼした大海人皇子は、673年に即位して天武天皇となりました。

その年、天武天皇は、伊勢神宮と祭神の天照大御神(あまてらすおおみかみ)を国家の祖先神として諸神の最高神に位置付けます。伊勢神宮において天照大御神に仕える斎王になることを、天武は大伯皇女に命じました。

大伯の血筋のよさと、その清廉さから白羽の矢が立ったことと思われます。大伯は初瀬の斎宮(※2)で潔斎のうえ、伊勢神宮へ下向していきます。弟を残し、大和を離れるその心情はいかばかりであったでしょうか。

斎王まつりの斎王役(写真:wikipedia)

※1壬申の乱:
672年に起きた古代最大の内乱。天智天皇の後継者大友皇子が率いる近江朝廷を大海人皇子軍が破り、大友皇子を自決に追いやった。

※2斎宮:
斎王になる女性が潔斎(身を清める)を行う場所

【その2】に続く……

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