坂本龍馬と薩長盟約実現に奔走! 中岡慎太郎「“暗殺前”日記の中身」 (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 幕末の志士である武市半平太が旗揚げした「土佐勤王党」で、坂本龍馬とともに四天王の一人に数えられる中岡慎太郎。二人は同じ土佐の出身で、薩長盟約の実現に奔走し、京の近江屋で揃って刺客に襲われて命を落とした。

 だが、龍馬の生家が豪商から郷士に成り上がったのに対し、慎太郎は大庄屋の出身で、前者が口達者なイメージが強い一方、後者は至誠剛直と評されたように、実際は似ているようで似ていない。

 また、幕末も押し迫った頃に土佐藩が二人の人脈を生かそうと、龍馬に組織させたのが「海援隊」で、慎太郎の場合は「陸援隊」。思想的にも前者が大政奉還派で、後者は武力討幕派だ。はたして慎太郎の功績は何か。彼が残した日記を中心に探ってみたい。

 慎太郎は天保九年(1838)、土佐東部の室戸岬に近い北川郷の柏木村で生まれ、「高知三奇童」の一人といわれた間崎哲馬に学問を教わる一方、武市に剣術を学んだ。

 その後、二〇代前半で近在の庄屋の娘を妻に迎えると、まもなく土佐勤王党に加盟。当時は尊王攘夷の真っ只中で、慎太郎はこうした中、志士として動き始める。

 文久二年(1862)九月、武市が京で朝廷に、幕府に攘夷決行を促す勅使の派遣を建言し、のちに太政大臣となる三条実美に決定。土佐藩主の山内豊範がその警護で江戸に参勤することになったため、土佐勤王党の面々が同行した。

 だが、慎太郎ら国元の同志は勅使の供という栄えある役から漏れ、その悔しさから勝手連的に五十人組を結成。同年一〇月に高知を発ち、京を経て翌月に江戸に入った。当時、長州藩も幕府に攘夷の決行を迫っていたことから、慎太郎は藩士らと交流していたのだろう。

 だが、翌文久三年、攘夷派と対立する公武合体派の巻き返しが始まる。土佐の前藩主だった山内容堂はそもそも公武合体派で、土佐勤王党に対する締めつけを強化。公武合体派が八月一八日の政変で長州藩を京から追い落とし、三条ら攘夷派七卿も長州に落ちると、翌月には武市が捕らえられ、容堂による弾圧が強まった。

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