坂本龍馬と薩長盟約実現に奔走! 中岡慎太郎「“暗殺前”日記の中身」 (2/3ページ)

日刊大衆

 当時、藩の役職である徒目付に就いていた慎太郎は、長州藩領の三田尻で七卿に拝謁するなどしたが、弾圧の手が迫ったため帰藩。その後、一〇月に脱藩して三田尻に入った。

 そして、龍馬が再び脱藩後、江戸の幕臣勝海舟の門下となって海軍の建設に突き進む一方、慎太郎は以降、長州藩とともに歩み始める。

 だが、慎太郎は元治元年(1864)七月、長州藩が巻き返しを図るため、蛤御門の変を起こして賊軍になった際、戦いに参軍して負傷。

 やがて、幕府の長州征討(第一次)が実行されたが、長州が恭順の意を示したこともあり、征討軍参謀西郷隆盛(薩摩藩士)らの策によって処罰は穏便に済まされた。

 この頃、慎太郎は寺石貫夫という変名を使い、当時は大島と称していた西郷と豊前小倉で会ったという記録が残っている。

 こうして慎太郎は長州藩のみならず、薩摩にも人脈を広げ、これが薩長盟約の実現に奔走する際の財産となった。

 ちなみに当時、慎太郎は『海西雑記』という日記を残し、慶応元年(1865)一月二九日付の記述には、「吉井(幸輔)、大久保(利通)」らと面談したとあり、吉井から猪の肉が送られてきたとある。

 その後、慎太郎は生まれて初めて蒸気船(薩摩藩船籍)に乗り、下関にいたかと思えば、京、さらに鹿児島と、まさに東奔西走した様子が日記から読みとれる。

 次に慎太郎が日記(『行行筆記』)を綴ったのは、すでに薩長盟約が成立したあとの慶応二年(1866)一一月一六日になってから。

 翌年の一〇月に大政奉還が実現し、幕末の動乱もいよいよクライマックスを迎えた頃だ。

 日記から彼の動きを追うと、相変わらず忙しい。大坂で年越しした慎太郎は元日早々、薩摩と長州藩士と天保山(大阪市港区)で薩摩藩船に乗り、下関で下船。長州藩士の高杉晋作を訪ね、宿に戻ると、訪ねてきた龍馬らと鶏鳴の時刻まで議論を重ねたという。

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