コント赤信号・渡辺正行vsダチョウ倶楽部「夏の大爆笑スペシャル対談」

日刊大衆

左から寺門ジモン、渡辺正行、肥後克広、上島竜兵
左から寺門ジモン、渡辺正行、肥後克広、上島竜兵

 本誌で大好評連載中の『コント赤信号 渡辺正行スター芸人たちの“笑いと涙”』。今回は、その特別編として、渡辺リーダーとお笑いトリオ『ダチョウ倶楽部』との対談が実現! ダチョウ倶楽部結成にまつわるリーダーとの因縁から、現在のスターたちの若かりし日の秘話まで爆笑エピソード満載です!!

渡辺 肥後は、コント赤信号が芸人修業をしたストリップ劇場「渋谷道頓堀劇場(以下、道劇)」の弟弟子。上島と寺門が劇団「テアトル・エコー」の後輩なんだよね。

肥後 83年頃、芸人になりたくて道劇に行ったんですよ。でも、「芸人がたくさんいるからギャラは出せない」と言われて、最初はお笑いの勉強をしたり、雑用をするぐらいでしたね。

渡辺 そうだったっけ?

肥後 はい。で、売れて忙しくなった赤信号が道劇の専属から抜けるとき、その枠に僕が入ることになった。ギャラは月15万円くらいで、踊り子さんの肩を揉めば小遣いがもらえるし、貯金もできるし、「一生このままでいいかな」って(笑)。

渡辺 それ、売れる前の俺と一緒だよ(笑)。

寺門 その頃、僕と上島は道劇の狭い部屋で渡辺さんと初めて会ったんです。

上島「劇団の後輩なんです。コントの勉強をしてるので見てください」って言ってね。僕らが7期生で、渡辺さんは2期生?

渡辺 そう、元ダチョウ倶楽部の南部虎弾(現『電撃ネットワーク』)と同期。

上島 渡辺さんはテレビにたくさん出てて、もうスターでした。『オレたちひょうきん族』でビートたけしさんや明石家さんまさん、島田紳助さんたちと共演して、その後は一人で『笑っていいとも!』(ともにフジテレビ系)でタモリさんとも共演しましたからね。

寺門 渡辺さんはサングラスをかけて、ウォークマンのイヤホンをつけながら、「さあ、やってみて!」と。

渡辺 えーっ、偉そう(笑)。イヤホンつけてたら、ネタが聞こえないじゃん。

寺門 いや、スターはそうでしたよ(笑)。渡辺さんには「君たち、10年かかるよ」って真顔で言われました。その後、「君たちみたいな若い奴らがいるから一度集まって、いろいろ考えてみて」って紹介されたんです。

上島 で、新宿の喫茶店で10人くらいで会ってね。

寺門 その中で一番汚い格好をしてたのが、ネズミ色のジャージ上下を着た肥後だった(笑)。

渡辺 道劇はジャージがふだん着だからね(笑)。

上島 他にも、派手なバスタオルをポンチョ代わりにして、頭を半分だけ剃って、赤い縁のメガネを斜めにかけた男がいた。南部さんなんですけどね(笑)。それがもう怖くて……。

■ダメな4人が残っていた

渡辺 その大人数から4人組のグループにどんなふうになったんだっけ?

肥後 渡辺さんが「ラ・ママ新人コント大会」をスタートさせたのが86年1月。その何か月か前に、道劇で「おまえも出ろ」と言われて、「分かりました」と返事をしたんです。それからしばらくして歌舞伎町を歩いてたら、たまたま渡辺さんと会って。「ネタ作りは進んでいるか?」って聞かれたんだけど、そのこと自体忘れてたから、チンプンカンプンで(笑)。

渡辺 チンプンカンプンだったのかよ(笑)。

肥後「出るって言ったんだから責任を果たせよ!」って、すごく怒られた。それで、すぐに電話して連絡が取れたのが、上島、寺門、南部さんの3人だけ。

渡辺 精鋭を集めたわけじゃなくて、たまたま……?

寺門 みんな、仕事やバイトがあって、一番暇な人間が集まったんです(笑)。

上島 そうですよ(笑)。ダメな4人が残っていたんです。それで4人で稽古を。

肥後「渡辺さんが怒ってるから、とりあえず1回だけやろう」ってね(笑)。

――渡辺さんはダチョウ倶楽部の初めてのコントを覚えていますか?

渡辺 もちろんですよ。大爆笑に次ぐ大爆笑でしたね〜(笑)。

肥後 全然、覚えてないですよね(笑)。

渡辺 うん。でも、ウケたのは覚えてる。そうでなければ、その後、定期的に出演してなかっただろうし。

寺門 今思えば、ラ・ママには夢があったよね。

渡辺 いいこと言うね(笑)。

寺門 あそこで「一番ウケた」って言われるたびに、芸人としてワンランク上に上がった気がしたし。流れも、どんどんいい方向に変わってくるんですよ。

上島 ラ・ママ出演のために、ショーパブで新ネタを作ったりしてたもんね。ちょうどその頃、テレビ局のプロデューサーとか、お笑い関係のいろんな人たちが観に来るようになって。

渡辺 時代が新しい芸人を求めてたからね。

上島 僕が覚えてるのは、そうした人たちはみんな、一緒に出てた『ウッチャンナンチャン』を評価してたんですよ。「ウンナンは最高だ」って。でも、渡辺さんと肥後の師匠の杉兵助先生だけは「いや、今日はダチョウが一番よかった」って褒めてくれた。あれはホントうれしかったなあ。

寺門  僕と上島は道劇で何度か会っただけで、直属の弟子でもないのに、なんか優しくしてくれたよね。

肥後  道劇は杉先生がいたから、お笑い芸人に対してすごく優しかった。

渡辺  俺が22歳で道劇に入った当時、先生は60代前半だったんだけど、歯が1本しかなくてヨボヨボ。初めは「こんなジジイが師匠なのか……」って落胆したもんだよ(笑)。でも、たけしさんが一度だけ、道劇の楽屋まで先生に会いに来たことがあってね。

上島  えーっ!?

渡辺  あるとき、たけしさんが先生の昔のネタをテレビでやったんだって。その報告のために、あいさつに来てくれたんだよね。

寺門  すごいっすね!

渡辺  そのときばかりは、「あのたけしさんがわざわざあいさつに来るなんて。この人、ただのジジイじゃないな」と思ったよ(笑)。

■東のお笑いを作った先駆者

――ダチョウ倶楽部が3人組になったいきさつは?

肥後  南部さんが87年頃に脱退した理由はいろいろあるんですけど、どんどん過激な方向に行こうとしたんですよね。

上島  南部さんから夜中に電話がかかってきて、いきなり「竜ちゃん、ビー玉4個飲めるか?」って(笑)。すぐ断ったら、「面白くねえな、おまえは!」って突き放されて……。ちょっと悩んだもんね(笑)。

寺門  俺は「金魚4匹飲め!」って言われた(笑)。

肥後  それで、南部さんに、「僕らはテレビのゴールデンタイムに出演できるようなアットホームな芸人になりたいんです!」と伝えて、袂を分かったんです。

渡辺  そうなんだ〜。

肥後  ところがその数年後、『お笑いウルトラクイズ』(日本テレビ系)で、リアクション芸人として南部さんと共演するという(笑)。

寺門  袂を分かったのにクロスしちゃった。分かんないねえ、世の中は(笑)。

渡辺  3人組になったときは心配したけど、ラ・ママで、すごくウケたんだよね。そのとき肥後がリーダーになったのは、なんで?

肥後  いろいろ話し合ったんですが、コント赤信号と同じく、3人組で一番背が高かったからですね。

渡辺  全然、話し合いじゃないじゃん。それに、俺は背が高いからリーダーになったわけじゃないし(笑)。

上島  でも、ネタ作りをするとき、しっかりとまとめて構成できるのが、うちのリーダーだったんです。

渡辺  そこは俺と一緒だね。

肥後  実は僕、コントの作り方を渡辺さんから学んだんですよ。赤信号は売れた後も、深夜に道劇の楽屋で稽古をすることがあって、それをずっと見てたんです。そこで寝泊まりしてたから、「早く帰ってくれよ」とも思ってたけど(笑)。

渡辺  ネタを作っては壊し、作っては壊しって、延々やってたからね。

肥後  僕はそこで学んだわけだけど、確実に言えるのは、渡辺さんが新人コント大会を始めてなかったら、今の東のお笑いはないね。

渡辺  いやいや、俺としては、若い人が若い人の前でお笑いをやる場を作ろうと思っただけなんだけどね。

寺門  それがすごいですよ。

上島  僕らは『とんねるず』、ウンナン、そして『ダウンタウン』と同じ「お笑い第3世代」に括られることがあるけど、それ以降、ずっと若手を育成してるわけですから。

寺門  今や第7世代。渡辺さんは東のお笑いを作った先駆者ですよ!

渡辺  もっと言って(笑)。

寺門  歴史の語り人!

渡辺  そう考えると、もし、あのとき歌舞伎町で肥後に会わなかったら……。

肥後  今のダチョウ倶楽部はないですね。

渡辺  いやあ、人生が変わるのって一瞬なんだなあ。

だちょうくらぶ 肥後克広(57)、寺門ジモン(57)、上島竜兵(59)のお笑いトリオ。1985年結成。『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』などの番組でリアクション芸で人気を博し、売れっ子トリオに。93年に初めてゴールデンタイムで『王道バラエティ つかみはOK!』のMC、翌年には『24時間テレビ』でチャリティーランナーを務める。93年に流行語大賞の銀賞に輝いた「聞いてないよォ」、「訴えてやる!」など有名ギャグも多数。現在も数々のお笑い番組で活躍中で、10月2日(金)〜14日(水)まで、『芸道45周年細川たかし特別公演ダチョウ倶楽部一座旗揚げ公演』が、東京・明治座で開催。チケットは8月から販売。詳しくは明治座HPまで。

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