軍神「上杉謙信」の後継を巡って争った2人の養子「景勝」と「景虎」の雌雄【後編】

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軍神「上杉謙信」の後継を巡って争った2人の養子「景勝」と「景虎」の雌雄【後編】

1578年3月に上杉家当主・上杉謙信がこの世を去ると、養子である2人の息子「景勝」「景虎」の間で、上杉家当主の座を巡る後継者争いが勃発した。今回は、前回に引き続き、上杉家の御家騒動「御館の乱」を探っていく。

前回の記事

軍神「上杉謙信」の後継を巡って争った2人の養子「景勝」と「景虎」の雌雄【前編】

御館の乱の始まり

謙信の死後、先手を取ったのは景勝陣営であった。景虎派有力武将の暗殺を契機に、春日山城本丸を占拠。いち早く上杉家の資金や兵器類を接収し、経済と軍事の要を牛耳った。景勝側の勢力は、直江一族など上杉家や長尾家古参の武将や家臣が多く味方した。

上杉景勝の肖像画

一方、先手を取られた景虎陣営は、三の丸に立て篭りこれを迎え撃った。景虎側の勢力は、主に関東管領・上杉一門衆や血族である北条家、同盟国であった武田家など国外の後ろ盾が目立った。

景虎有利な戦況

本丸を占拠し、いち早く行動に出た景勝勢であったが、5月になって景虎が三の丸を脱出し御館に移ると戦況が傾き始める。

漢字から住居であるイメージが強い「御館」だが、全国でも屈指の堅牢な城館であった。複数の郭や二重の堀で守られた御館を攻め落とすことは容易ではなかったと思われる。

上杉家の本拠地「春日山城」

また、国外の主要な大名家のほとんどは景虎に味方しており、景虎陣営は助勢を要請。血族の北条家を中心に、同盟国である武田家や伊達家などが数万の軍勢をもって支援した。

決着へ

国外勢力の支援もあり、一時は攻勢に出た景虎勢だったが、9月になると景勝勢が武田家と進めていた和睦交渉が前進。信玄が死亡し、長篠の戦いに敗北して国力を落としていた武田家は、越後妻有城の割譲を条件に景勝側に寝返る。

また、生家である北条家からの援軍も、冬の豪雪によって孤立することを遅れた北条側の判断により撤退。御館に籠る景虎勢は徐々に孤立していく。

年が明けた79年2月。景勝勢は御館に総攻撃を仕掛ける。余力のない景虎勢は、3月に入ると謙信の養父である上杉憲政が、景虎の長男・道満丸と共に景勝側に和睦交渉に向かうが、揃って殺害される。

御館は落城。景虎は御館を脱出して生家である北条家へ逃亡を図る。しかし、途中で立ち寄った鮫ヶ尾城で、城主・堀江宗親に裏切られ、正室の清円院と共に自害した。享年は26とされている。

御館の乱後の上杉家

御家騒動に勝利した景勝は敵対勢力を粛清し、上杉家当主となった。以後、自身の出身家である上田長尾家を中心とした支配体制を確立する。豊臣政権下では五大老に名を連ね、1623年死去。享年69。関ヶ原以降は米沢藩として存続した。

先代の謙信が、「景勝」と「景虎」のどちらを後継者として考えていたかは定かでない。それぞれに様々な学説が存在するが、いまだに不明とされている。

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