享保大飢饉の犠牲者を祀った福岡市博多区中洲にある川端飢人地蔵尊 (3/5ページ)

心に残る家族葬

「店運上銀(みせうんじょうぎん)」と呼ばれる、商工業者への課税。財政収支の明瞭化のために「御積帳(おつみちょう。予算書のこと)」に基づく藩政を行わせるなど、財源の安定・拡大策を取った。それらは一定の効果があったようだが、備蓄米の確保に関しては、農村の新たな負担になったことから、年貢減免を求める騒動が農村部で起こっていたという。

■川端飢人地蔵尊は享保大飢饉の50年後に建てられた


こうした取り組みを経て、飢饉による藩内、そして地域の人々の心の傷も癒えたのだろう。大飢饉から50年経った元明元(1781)年、「五十回忌」ということなのか、餓死者の供養のために、「飢人地蔵」が建てられた。

今日、「九州の玄関口」の役割を果たしているJR博多駅からは少し離れているものの、古代に始まる「アジアの玄関口」だった博多湾にほど近い「場所」ゆえに、「ほんとの博多」とも称される、川端地域の連帯の強さのおかげだろう。このお地蔵様は忘れ去られることなく、明治〜大正〜昭和と時代の荒波にもまれつつも、現在に至るまで、毎年地蔵盆の時期である8月23、24日に「施餓鬼(せがき)供養」を目的とした夏祭りが行われるほど、大切に祀られている。

■川端飢人地蔵尊は戦争犠牲者の追悼施設も兼ねている

しかもこの「飢人地蔵」は、享保の飢饉の犠牲者だけを供養の対象としているわけではない。第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年6月19日深夜11時における、福岡市域中心部の3.78km、軍関連施設ばかりではなく、官公庁・学校・会社・工場・商店街・一般民家はもちろんのこと、交通・通信・電気・ガス・水道などの生活インフラ全てが破壊され、被災戸数12693戸と、甚大な被害を及ぼした「福岡大空襲」の犠牲者、すなわち被災人口60599人のうち、死者902人、負傷者1078人、行方不明244人とされる犠牲者たちの追悼施設を兼ねるようにもなっているのだ。

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