アルコール依存症で早死? 関ヶ原の戦いで西軍を裏切った武将「小早川秀秋」の死因を考察【後編】

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アルコール依存症で早死? 関ヶ原の戦いで西軍を裏切った武将「小早川秀秋」の死因を考察【後編】

21歳という若さで死亡した「小早川秀秋(こばやかわひであき)」。

1600年に勃発した「関ヶ原の戦い」。「西軍」に与しながら合戦中に「東軍」に寝返り徳川方に味方した秀秋は、西軍敗北の直接的な原因を作ったともいわれる男だ。

関ヶ原での秀秋の行動や、若すぎる死にはどのような理由があったのか。通説を交えて考察したい。

前編の記事はこちら

アルコール依存症で早死? 関ヶ原の戦いで西軍を裏切った武将「小早川秀秋」の死因を考察【前編】

死因の通説

秀秋の死因については、関ヶ原の戦いにおける寝返りが原因とする説が一般的となっている。西軍に加担しておきながら、合戦の最中に東軍に寝返った秀秋。その後、自身の行為に対する世間の目や、「裏切り者」という評価に悩み精神を病んだとするものだ。

また、関ヶ原で秀秋軍の裏切りによって命を落とした大谷吉継の祟りという逸話も残っている。しかし、近年では上述の説よりの信憑性の高い説が存在する。

大谷吉継の祟りに怯える秀秋(Wikipediaより)

秀秋の死は「酒」だった?

【前編】でも触れた通り、秀秋は豊臣家の跡取り候補として秀吉の養子となっていた。正確な年齢は不明だが、2歳の頃には秀吉の元にいたといわれている。

秀秋が元服した1589年頃になると、秀吉は天下統一に向けて着々とその歩みを進め、関東以西における目ぼしい反対勢力は北条氏のみとなっていた。秀吉の権力は絶大で、有力な後継候補であった秀秋の元にも多くの大名が関係性を深めようと集まったことが伺える。そこで必須となったのが「酒」だった。

戦国時代においては、若くして元服し酒を嗜むことは一般的で、秀秋も元服当時から酒の味を知っていたと考えられている。若年期から大量のアルコールを摂取した体は弱り、酒によって命を落とした武士も多かったとされる時代。秀秋も同様に、酒によって体を蝕まれていた可能性が高い

安土桃山時代の医師「曲直瀬道三 (まなせどうさん)」 の医学書「医学天正記」や「配剤録」には、秀秋の病状について「胸中煩問全不食」という記載が残っており、1601年には酒害による黄疸の症状が激しくなったとされている。

秀秋の死はその翌年の1602年だ。アルコールの過剰摂取によって何らかの病気を併発した結果の早世と考えるのが打倒だろう。

関ヶ原合戦屏風

関ヶ原の戦いに至る過程では、「西軍」「東軍」双方から様々な勧誘を受けたとされる秀秋。幼くして天下人の後継とされ、戦国最大の合戦に身を投じた若き大名の重圧は計り知れないものがあっただろう。その重圧から逃れるために煽った「酒」が、結果的に秀秋の身を滅したのかもしれない。

参考資料
「玄朔道三配剤録」と「医学天正期」から見た曲直瀬道三一門の患者とその時代

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