源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【五】

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源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【五】

前回のあらすじ

時は平安末期の治承四1180年、源氏討伐の動きを知った源頼朝(みなもとの よりとも)は、生き残りをかけて挙兵。手始めに伊豆国(現:静岡県伊豆半島)の目代・山木判官兼隆(やまき ほうがんかねたか)を襲撃します。

北条義時(ほうじょう よしとき)は父・北条時政(ときまさ)や兄・北条宗時(むねとき)と共に奮闘、みごとに勝利を収めたものの、敵将の首級は上げられませんでした。

しかし、戦いはまだ始まったばかり。義時たちは生き残ることが出来るのでしょうか……。

前回の記事

源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【四】

恃みの三浦一族は合流できず…石橋山の合戦でボロ負け

さて、目代の山木判官を討ち果たしたことによって伊豆・相模の国衆が徐々に頼朝の元へ参集、その軍勢は300ほどに増えてきました。

「そろそろ伊豆を出て、東の三浦一族と合流しよう」

歌川国芳「本朝名将鏡」より、源家再興の大義に決起した老雄・三浦大介義明。

ちょうどその頃、三浦半島(現:神奈川県東部)の大豪族・三浦大介義明(みうら おおすけよしあき)が頼朝の誘いに応じて挙兵していましたが、その数およそ5,000とも言われる大軍ゆえ、なかなか動きが取れずにいたようです。

「しかし、道中には大庭(景親)めが立ちはだかっており、やはり一戦は避けられんな……」

早くしないと、伊豆半島に閉じ込められてしまいます(現代に比べ、海路は高リスクでした)。大庭の勢力を迂回するのは現実的でない以上、戦うよりありません。

背後から迫って来る伊東次郎祐親(いとう じろうすけちか)の軍勢約300に追い立てられるかの如く進軍した頼朝たちは、8月23日に石橋山(いしばしやま。現:神奈川県小田原市)で布陣。大庭の軍勢約3,000と対峙しました。

ちなみに、伊東祐親は時政の舅であり、頼朝にとっては義理の祖父とも言える存在ですが、実は頼朝が以前、祐親の娘に夜這いをかけて疵物にしたばかりか、子供(千鶴-せんつる)までもうけてしまったため、恨みを買っていたのでした(千鶴は殺されています)。

祐親の娘をナンパした頼朝。流人のくせに、けっこう気ままでフリーダム(イメージ)。

「あーあ、佐殿(すけどの≒頼朝)が女ったらしでなければ、もしかしたら伊東殿も味方してくれたかも知れないのに……」

「う、うるさいっ!」

ともあれ始まった石橋山の合戦は、頼朝300の軍勢を西から祐親300、東から大庭景親3,000が挟撃。圧倒的不利な状況下において、大庭の背後からやって来る三浦一族5,000の援軍が間に合うかどうかが逆転のカギを握っています。

合戦に先立って、時政は敵の総大将たる大庭平三郎景親(おおば へいざぶろうかげちか)に言葉戦(ことばだたかい)を挑みました。互いの正当性を主張することで味方の士気を高め、敵の士気を下げるのが目的です。まずは時政が、景親をなじりました。

源義家と鎌倉景正、そして頼朝と景親の系図。

「大庭殿はかの鎌倉権五郎景正(かまくら ごんごろうかげまさ)が末葉=子孫なれば、その主君である八幡太郎源義家(はちまんたろう みなもとの よしいえ)が末葉なる佐殿に従うのが道理であろう!」

※その時(鎌倉権五郎景正)のエピソードはこちら。

たとえ右目に矢が刺さろうとも――武士が生命より大切なもの、鎌倉権五郎景正の武勇伝

そうだそうだ……頼朝の軍勢は俄かに活気づいたものの、景親も負けてはいません。

「百年近くも昔のこと(後三年の役。永保三1083年~寛治元1087年)を、いつまでも未練がましい!とっくに時代は変わっておるんじゃ、相国入道(=平清盛)様より受けた御恩は、山より高く、海より深いんじゃ!」

そうだそうだ……時代遅れのロートルはすっこンでろ……形勢はあっという間に逆転されてしまいました。

「あぁ、父上……」

「それにしても、三浦の軍勢はまだかのぅ……」

願いも虚しく、頼みの綱である三浦一族は、丸子川(酒匂川)の増水で足止めを喰らって間に合わず、およそ11倍の兵力差を前にした頼朝の軍勢は、奮闘むなしく散々に打ち負かされてしまいました。

「いかん、退け!退けぇ……っ!」

義時は頼朝を護衛しながら退却、この辺りに土地勘がある土肥次郎実平の案内で、鵐窟(しとどのいわや。現:神奈川県湯河原町)へ逃げ込みます。

再起を図って甲斐国へ…頼朝と再会し、富士川の決戦へ

「やれやれ……小四郎、大丈夫か?」

捜索の手を逃れ、身をひそめる頼朝たち。稲野年恒「石橋山合戦之図」より。

ボロボロになりながらも生き残った者たちが頼朝の元へ集合。義時は、乱戦の中ではぐれてしまった時政や宗時と再会しました。

「あぁ、無事だ……兄上、父上も健在で何よりです」

「おぅ。こんなところでくたばっては、政子に笑われてしまうわい……しかし、再起を図るためには味方を集めねばならんな……」

そこで時政は義時と共に甲斐国(現:山梨県)へ赴いて武田太郎信義(たけだ たろうのぶよし)に援軍を要請、宗時は単独で伊豆国へ戻り、まだ決起していない土豪たちの説得に当たります。

「それでは兄上、お気をつけて」

「小四郎、父上を頼んだぞ」

こうして頼朝の元を離れた義時たちですが、これが宗時と今生の別れになってしまうのでした(宗時は伊豆国平井郷、現:静岡県函南町で伊東祐親らによって討たれ、現地に墓が残されています)。

敵の包囲網をどうにか突破した時政と義時は甲斐国へと急いで信義と面会。源家再興の好機を喜んだ信義は、快く頼朝への援軍として兵を挙げました。

「よぅし、ちょうど駿河(現:静岡県東部)の目代・橘遠茂(たちばな とおしげ)らが源氏討伐などと吐(ぬ)かしてこちらへ向かっておるから、返り討って佐殿への手土産と致そうぞ!」

「「「おおぅ……っ!」」」

石橋山から逃げ集って来た者たちも加勢して捲土重来(けんどちょうらい。リベンジ)の闘志に燃える信義の軍勢は、橘遠茂を捕らえ、その子息二名や長田入道(おさだにゅうどう)らを討ち取る武勲を立てます。

「小四郎、後れをとるな!」

「おぅ父上、行かいでか!」

時政と義時もここぞとばかりに大暴れ、後世にいう「鉢田山の合戦(治承四1180年10月14日)」で勝利した信義の軍勢は、京都から攻めて来る平維盛(たいらの これもり。清盛の嫡孫)の大軍を迎え撃つべく、鎌倉から進軍してきた頼朝と合流して黄瀬川(きせがわ)に布陣しました。

ちなみに頼朝は石橋山の敗戦後、包囲網を脱出して真鶴岬(現:神奈川県真鶴町)から出航。相模湾を渡って安房国(現:千葉県最南部)へと上陸し、とりあえず身の安全を確保します。

※これは景親がわざと見逃した(泳がせた)という説もあるようです。

実は頼朝以上の大器だった?石橋山の合戦で頼朝を見逃した大庭景親の壮大な戦略スケール【上】

実は頼朝以上の大器だった?石橋山の合戦で頼朝を見逃した大庭景親の壮大な戦略スケール【下】

その後、次第に力をつけながら鎌倉を目指し、道中で千葉介常胤(ちばのすけ つねたね)や上総介広常(かずさのすけ ひろつね)、畠山次郎重忠(はたけやま じろうしげただ)と言った大豪族たちを次々と味方につけました。

かくして無事に鎌倉へ入った頼朝は「勝ち馬に乗ろう」と続々参集してきた坂東各地の武士団を吸収し、その勢力は看過しがたいほどに膨張。

頼朝をあえて見逃した?大庭景親。その戦略が裏目に……?

それまでは、景親から頼朝謀叛の報せを受けても「現場で処理しておいて」くらいにしか考えていなかった平家一門も、事ここに至って「これは一大事」と認識。平維盛を総大将とした討伐軍を編成し、東海道から進攻させたのでした。

さぁ、平家が繰り出す本気の大軍を、頼朝たちはどう迎え撃つのでしょうか。

【続く】

※参考文献:
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』洋泉社、2012年8月
細川重男『執権 北条氏と鎌倉幕府』講談社学術文庫、2019年10月
坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』中公新書、2018年12月
阿部猛『教養の日本史 鎌倉武士の世界』東京堂出版、1994年1月
石井進『鎌倉武士の実像 合戦と暮しのおきて』平凡社、2002年11月

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