関ヶ原に散った「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちのそれから【後編】 (1/2ページ)

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関ヶ原に散った「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちのそれから【後編】

関ヶ原の戦いに敗れ六条河原で斬首された「石田三成」には6人の子供がいた。今回は【前編】に引き続き、関ヶ原以降、三成の子供たちが歩んだ人生をご紹介する。

前回の記事

関ヶ原に散った「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちのそれから【前編】

三男 佐吉

6人兄弟の末っ子である「佐吉(佐吉は幼名)」は1594年頃に生まれたと考えられている。元服前のため、石田家が三男に用いた幼名だけが伝わっている。

関ヶ原の戦いの際は、祖父である石田正継と叔父である正澄と共に佐和山城にいたとされる。当初は徳川方との開城交渉によって正澄の命と引き換えに城内の人間の助命が叶うはずであったが、石田方から裏切り者が出たことによって佐和山城は落城。正継と正澄親子は自刃した。

佐吉の命も危ぶまれたが、交渉役の「津田 清幽(つだ きよふか/せいゆう)」の働きによって助命が認められる。その後は、父と縁のあった僧「木食応其(もくじきおうご)」の元で出家。

津田清幽から「清幽」という字をもらい、「深長坊清幽(しんちょうぼうせいゆう)」と名乗った。一説には1670年代まで生きたと伝わっている。

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