鎌倉幕府滅亡の元凶は“虚弱体質”!?北条高時に「暗君の汚名」の真実! (2/3ページ)

日刊大衆

 つまり、高時はこの時点でお飾りで、五年後の正和五年(1316)に一四代執権を継いだものの、実権は円喜と高資の父子、時顕が掌握。執事である円喜を通じて出された案件についてはただ、「それなら舅殿の言うとおりに……」などと言うだけで、政務を彼らに任せきりだったという。

 当然、長崎父子と時顕の利害が衝突し、高時は嘉暦に改元された正中三年(1326)、二四歳で執権の職を辞して三月一六日に出家。その後継の座を巡って両者が対立し、「嘉暦の騒動」と呼ばれる事件に発展した。

 当時、執権の補佐役だった連署の金沢貞顕(北条庶流家)も出家しようとし、長崎高資がこれに猛反対。長崎父子が同じ得宗家被官(家臣)である五大院宗繁の妹を母に持つ邦時(高時の長男)を執権に就けたかったからだ。

 とはいえ、二人にとって御しやすい邦時は当時、生まれたばかりの幼児。さすがに執権にするわけにはいかず、貞顕に繋ぎ役として白羽の矢を立てた。当然、貞顕が出家すれば、高時の弟である泰家に執権職が巡ることになり、長崎父子はそれだけは避けたかったのだ。

 というのも、泰家は高時の同母弟で、舅は前述の安達時顕。泰家が執権となれば、パワーバランスが一気に安達一族に傾きかねない。長崎父子はそこで、貞顕にも告げずに秘密裏に彼の執権就任を画策。高時が出家した三日後の朝、使者を貞顕の元に遣わせると、執権の座を喜んで受けた。

 だが、貞顕はやがて長崎父子の企みに乗ったことを激しく後悔し、執権になった当日、その候補の一人だった泰家が抗議の意味から出家すると、幕府の御家人らは老いも若きもこぞって追随。得宗家の執事に過ぎない長崎父子の権勢にそれだけ、反発する御家人が多く、そうした怒りが次第に貞顕に向けられるようになると、彼は身の危険を感じ、三月二六日に執権を辞任。在職期間はわずか一一日だった。

 こうした中、幕府最後の執権にその後、赤橋守時(北条庶流で足利高氏の義兄)が就いた。

 騒動の最中、長崎父子にとって目障りだった泰家が前述のように出家し、権力争いの軍配は一時、彼らに上がったが、御家人らが反発。

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