石原裕次郎、高倉健、松田優作…昭和の大スター「泣ける…男の友情伝説」

日刊大衆

写真はイメージです
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 互いに惚れ込み、時に競い合い、絆を深めた名優たち。そこには彼らにしか分からない“世界”があった!

 8月に他界した渡哲也(享年78)の訃報に、心を痛めた読者も多いことだろう。彼はふだんから豪快で、男気にあふれていた。そんな大スターたちの知られざる友情秘話を紹介しよう。

 まず渡哲也と、日活の先輩・石原裕次郎(享年52)が義兄弟の関係だったことは、あまりに有名だ。「1964年に日活入りした渡さんが、撮影所の食堂で食事をしていたスター・裕次郎さんにあいさつをした際に、“君が渡哲也君ですか。頑張ってくださいね”と、わざわざ立ち上がって握手を求めた。これが渡さんの運命を決めたんです」(ベテラン映画関係者)

 当時の裕次郎は独立して、石原プロモーション(以下:石原プロ)を設立。映画製作を始めていた。「裕次郎さんにかわいがられてはいましたが、渡さんはしばらく日活の所属だった。2人が完全に結びついたのは71年、ある作品の興行的な失敗で石原プロが経営難に瀕したことがきっかけです」(前同)

 尊敬する裕次郎のピンチに、渡は思い切った行動に出た。「現金180万円を封筒に入れ“皆さんのお茶代にしてください”と裕次郎さんに差し出し、石原プロ入りを志願したといいます。裕次郎さんは涙が出るほどうれしかったでしょう」(同)

 渡の移籍で、2大エース体制となった石原プロは、やがて息を吹き返すことになる。

 裕次郎にとって、7歳下の渡は弟分だが、五分の義兄弟にあたる存在が勝新太郎(享年65)だ。日本映画の全盛期、大手映画会社五社は、「五社協定」を結び、各社専属の俳優、監督の引き抜き、貸し出しを禁止していた。「ですが、日活の裕次郎、大映の勝新、東宝の三船敏郎(享年77)、東映の中村錦之助(享年64=のちの萬屋錦之介)ら各社の大物スターたちは、“夜の街”で交友関係を深めていたんです」(芸能記者)

 芸能リポーターの石川敏男氏が、裕次郎と勝新の秘話を明かす。「大病を克服した裕次郎さんがハワイで静養していたとき、勝新さんは、“お見舞い”と称して現地で合流したんです」

 そこで、ヤンチャな2人らしい行動をしたという。「病み上がりの裕次郎さんはタバコを吸ったら、まき子夫人に怒られる。だから勝新さんは、裕次郎さんの別荘から少し離れた植え込みのところに、あらかじめタバコを隠していた。それで、まき子さんに手ぶらであることをアピールしてから、外に出て2人で、そのタバコをおいしそうに吸った……なんてことがありました」(前同)

 また、他社スターとの交流は、映画製作者としての裕次郎の背中を押した。「同じ頃『三船プロダクション』を設立した三船敏郎とタッグを組んで、超大作『黒部の太陽』(68年)を製作するんです」(前出の記者)

 五社協定の枠を超えた映画製作にはさまざまな障壁があったものの、この作品の大ヒットで映画界に大きな風穴が空いたのだ。

■北大路欣也の自宅で

 一方、東映の金看板・高倉健(享年83)は酒を飲まず、銀座で豪遊するタイプではなかった。そんな健さんを尊敬する俳優は多く、前出の石川氏は、北大路欣也(77)も、その一人だと証言する。「あとで欣也さんに聞いた話だけど、2人はよく自宅を行き来する仲だったらしく、あるとき、健さんが欣也さんの家に行くことになったそうなんです」

 欣也は今か今かと待っていたというが……。「きれい好きの健さんが家に入るなり、“汚きったねえ部屋だなあ。おまえ、いつもこんなところに住んでいるのか?”と呆れて言ったそうです。それに対し欣也さんは“ええ、まあ、そうですよ”“慣れるもんですよ”と答えたとか」(前同)

 親しい関係がにじみ出てくるやりとりではないか。

 小林稔侍(79)は売れない時代が長く、健さんとは“主役と、その他大勢”といった構図での共演が多かった。だが、健さんは保証人を引き受けるなど、小林の面倒をよく見ていた。「稔侍さんにとって健さんは大恩人。だからこそ、初めて対等な立場の役を演じた映画『鉄道員』(99年)は忘れられない作品なんです」(映画雑誌編集者)

 この映画で2人は、お互いを思いやる旧友同士という設定だった。「親友同士である2人の抱擁シーンは、演技を超えた名場面でした」(前同)

■梅宮辰夫と松方弘樹は銀座が大好き

 健さんと同じ東映スターの梅宮辰夫(享年81)と松方弘樹(享年74)は、互いを「辰兄ィ」「弘樹」と呼び合い、豪快に遊んだ。「そろって銀座が大好き。どれだけの女性と遊んだか。それを一切、奥さんたちには秘密にしてね。まあ、悪さするときにこそ、友情が発揮される場合もあるんでしょうね」(石川氏)

 梅宮は、37歳でがんを発症し、克服後は夜遊びをしなくなるが、友情は松方が亡くなるまで続いた。「梅宮さんは毎回、手作りの特製弁当持参で病床の松方さんを見舞った。松方さんはいつも、それを食べるのを楽しみにしていたとか」(前出の芸能記者)

 若き日の松田優作(享年40)は、映画『竜馬暗殺』(74年)で初共演した原田芳雄(享年71)の型破りな芝居に惚れ込んだという。「以後、優作は原田を兄貴分として慕い、彼の芝居から学んだ。あの優作の独特の演技は原田が原点なんです」(映画ライター)

 両者の男臭く熱い友情は公私にわたった。「なんと、優作が原田の家の隣に引っ越したんです。それほど心酔していた。優作から、いろいろな刺激を受けていた原田も、それを嫌がらなかったそうです」(前同)

 優作が他界して約1年後、原田は仲間を集めて追悼ライブを開催した。ブルースシンガーでもある原田は、万感の思いで、志半ばでこの世を去った弟分に惜別の歌を贈っている。

■三浦友和と忌野清志郎は高校の同級生

 三浦友和(68)には、意外な友人がいる。ロックバンド・RCサクセション忌野清志郎(享年58)だ。「2人は高校の同級生なんです。清志郎は当時からRCサクセションとして活動しており、音楽が趣味の友和がサポートメンバーを務めたこともあった」(同)

 三浦は清志郎から受けた影響が大きかったという。「通っていた都立高校は進学校だったが、友和は音楽で食べていこうと考え、大学を受験しなかった。結局は俳優として芸能界入りするわけですが」(同)

 もし、大学に進んでいれば、山口百恵との結婚はなかったのかもしれない。

 ザ・タイガースの“ジュリー”沢田研二(72)、ザ・テンプターズの“ショーケン”萩原健一(享年68)は、GSブームが生んだ2大アイドルだった。「ブームが下火になると、彼らは『PYG』という、新バンドを結成しますが、これは短期間で空中分解します」(音楽関係者)

 その後も、映画共演するなど接点はあったが、親友というより、“ケンカ仲間”と言うべき間柄だった。「毒舌でジュリーを批判することがあったショーケンも、後年は“僕のライバルですから”とジュリーに敬意を表する発言をしています」(前同)

 2019年、ショーケンの死後のステージで、ジュリーは、こう胸の内をブチまけた。「俺だって生き方が上手じゃない。けど、ショーケンはもっと上手じゃなかった。でも、それが萩原健一、萩原敬三(本名)だ。俺は、あいつが大好きだ。見守っていてくれな」

 そう言って彼は、3分間の黙祷を捧げたのだった。

 熱い絆で結ばれた昭和のスターたち。どんなに時が流れても、彼らはかくも魅力的なのである。

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