なんと90歳を超えて挙兵! 戦国時代の武将「龍造寺家兼」のお家再興ドラマ【中編】

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なんと90歳を超えて挙兵! 戦国時代の武将「龍造寺家兼」のお家再興ドラマ【中編】

90歳を超えてお家再興を成した「龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)」。しかし、その人生は戦国の世らしく戦いに明け暮れたものだった。

今回は【前編】に引き続き、龍造寺家兼の功績と人生をご紹介する。

前回の記事

なんと90歳を超えて挙兵! 戦国時代の武将「龍造寺家兼」のお家再興ドラマ【前編】

田手畷(たでなわて)の戦い

当時の北九州は、「周防国(すおう)」を制する「大内氏」「肥前国(ひぜん)」の「少弐氏(しょうに)」が覇権をめぐって対立していた。少弐氏は1497年に起こった大内氏との戦いに敗れ、領地を大幅に失った上に当主「少弐 政資(しょうに まさすけ)」が自刃に追い込まれたという過去があったため、大内氏との間には因縁が存在した。

1530年。大内氏16代目当主である「大内 義隆(おおうち よしたか)」は、政資の息子であり少弐氏16代目当主である「少弐資元(しょうにすけもと)」を討つべく行動を開始。筑前国守護代「杉興運(すぎおきかず)」に大内方の諸将を集めさせ、資元の肥前国を攻めた。

大内氏15代目当主「大内義興(よしおき)」。少弐氏15代目当主「少弐政資」を自刃に追いやった。(Wikipediaより)

戦力は大内氏方が圧倒的に有利であり、裏切る諸将も出たことで本拠地である肥前神崎郡深くまで攻め込まれた少弐氏。龍造寺家兼を中心に奮戦するが徐々に敗戦の気配が漂い始める。

戦の結末から少弐氏滅亡まで

劣勢と思われていた少弐方だったが、龍造寺家兼に協力した鍋島氏や肥前石井氏を中心とした一族が結成した奇襲隊が活躍する。大内方は横岳資貞・筑紫尚門といった先鋒の武将が敗死したことで勢いを削がれ、結果的に敗走した。

合戦が起こった場所に関しては正確な位置はわかっていない。ただし、少弐氏当主であった資元の居城「勢福寺城(せいふくじ)」が佐賀県神埼市にあったことから、同地近辺が戦場と考えられている。

田手畷の戦いに勝利した少弐氏は、大内氏の影響力の強かった北九州の支配権を回復した。

しかし、田手畷の戦いの勝利は大内氏のさらなる侵攻のきっかけとなった。資元は和議を結んで休戦を試みるが、大内方の策略もあり領地を奪われてしまう。1535年、資元は自刃。少弐氏は滅亡することになる。

少弐氏の滅亡には龍造寺家兼が深く関わっているとされている

最後の【後編】では、少弐氏滅亡前後の家兼の動きの考察、その最後をご紹介する。

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