百姓から一国の大名に!民衆や神様に愛された戦国武将・田中吉政の立身出世を追う【上】

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百姓から一国の大名に!民衆や神様に愛された戦国武将・田中吉政の立身出世を追う【上】

戦国時代と言えば下剋上の嵐が吹き荒れ、実力しだいで立身出世も夢ではなかったイメージですが、活躍したのは元から武士身分だった者が多く、天下統一を果たした豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)のように、百姓など低い身分から成り上がった者はごく少数派でした。

真勝寺蔵「田中吉政肖像」Wikipediaより。

だからこそ特筆されたのですが、今回は百姓身分から一国の大名にまで立身出世を遂げた田中吉政(たなか よしまさ)の生涯を追ってみたいと思います。

謎多き出自と青春時代

田中吉政は天文十七1548年、近江国浅井郡宮部村(現:滋賀県長浜市)の百姓家に生まれたと言われています。

父親は田中重政(しげまさ)、母親は(たけ)と言われており、百姓にしては立派な父親の名前は、恐らく吉政が家柄に箔をつけようと後から称させたものかも知れません。

恐らくは吉政本人が名乗っていた久兵衛(きゅうべゑ)という名前を代々受け継いできたか、あるいは似たような名前だったものと考えられます。

弟に田中清政(きよまさ。左馬允、後に赤司城主)、田中氏次(うじつぐ。兵庫助、後に江浦城主)がいますが、こちらも出世した後の名前で、幼名については不明です。

とかく前半生については史料が乏しく、謎が多い久兵衛ですが、叔父(母の弟)である国友与左衛門(くにとも よざゑもん)のツテで宮部村の領主・宮部継潤(みやべ けいじゅん)に仕え、元服して田中宗政(むねまさ)と称しました。

当時有数の鉄砲産地である国友を治めていた与左衛門は、後に久兵衛たちの強敵となった(イメージ)。Wikipedia(撮影:Corpse Reviver氏)より。

詳しい年代は不明ですが、当時の元服は数えで15歳(満14歳)前後が多いため、久兵衛の元服≒仕官は永禄五1562年ごろと考えられます。

さて、コネによって7石2人扶持(米約1,050kgの年収&家来1名)の待遇で迎えられた久兵衛は、出自の卑しさを隠すため、かつては武士の家柄であったと称しました。

曰く「自分は鎌倉幕府の御家人・高島高信(たかしま たかのぶ)の末裔で、近江国高島郡田中村(現:滋賀県高島市)を治める田中城々主の家柄であったが、祖先は戦乱によって城を失い、百姓となった」とのことですが、実際のところは不明です。

しかし才覚については確かだったようで、将来を見込まれた久兵衛は宮部継潤の養女を正室に迎えて婿養子となりました。彼女は叔父・与左衛門の娘でしたから、久兵衛にとっては従妹に当たり、よりいっそう絆を強めて奉公に励んだことでしょう。

民百姓、そして神様にも愛された久兵衛

明朗快活な性格だった久兵衛は周囲から愛されたようで、主君の寵愛を嵩に着るようなこともなく、まめに領内を見回っては百姓たちと一緒に弁当を広げ、彼らの悩み事や相談を熱心に聞いては施策に反映するべく進言したため、人望に篤かったと言います。

また、褒美として袴を賜り、さっそく家紋の「右三つ巴(みぎみつどもえ)」を入れようと紺屋に染めさせたところ、型紙の下絵をそのまま書いて渡しでもしたのか、向きが真逆の「左三つ巴」紋になってしまいました。

現代と違って生地も貴重で「また新しい袴を用意すればいいじゃん」とは行かない時代ですから大問題です。狭量な武士であれば紺屋を斬り捨ててしまったでしょうが、久兵衛は笑って許します。

日牟礼八幡宮に伝わる左三つ巴の御神紋(黄丸部分)。Wikipediaより(撮影:663highland氏)。

「ちょうど八幡さま(日牟禮八幡宮。現:滋賀県近江八幡市)の御神紋が左三つ巴……これはきっと、八幡さまがわしにご加護を下さったに違いない。紺屋よ、大儀であった!」

「は、はぁ……!」

事実、この左三つ巴の紋を染め抜いた旗頭は数々の武勲をもたらし、人々は久兵衛の度量を賞賛することとなったのでした。

※他にも久兵衛は近江源氏の先祖伝来と自称する釘抜(くぎぬき)紋も使用しており、これは「くきぬき」が「九城抜き=九つの城を抜く=攻略する」に通じる縁起のよい家紋で、後に城攻めでも武功を上げています。

そんなある日、久兵衛が茶屋の店先で枡(ます)を枕に昼寝をしていたところ、通りがかった盲人に見とがめられました。

「いけませんな……米を量る枡を枕にするなど、そのように米を粗末に扱うようでは、せいぜい一千石ばかりの領主で終わってしまいますぞ」

どうして盲人に久兵衛の姿が見えるのか、と思いますが、当時の概念では弱視や色盲など、視力に問題があるものは一くくりに盲人と呼ばれたようです。

それはともかく、盲人に諫められた久兵衛は素直に反省し、「よく気づかせてくれた」と感謝して酒と海老(おそらく川蝦)を一升づつ贈りました。

「もしも将来わしが栄達できたなら、間違いなくそなたのお陰であろう。必ず謝礼を致すゆえ、それまで達者で暮らすのじゃぞ」

「ははは、楽しみにしておりますぞ」

立ち去る盲人を見送る久兵衛(イメージ)。

こうして別れた二人が再会を果たすのは、30年以上の歳月を経た後になります。

【続く】

※参考文献:
市立長浜城歴史博物館ら『秀吉を支えた武将 田中吉政―近畿・東海と九州をつなぐ戦国史』市立長浜城歴史博物館、2005年10月
宇野秀史ら『田中吉政 天下人を支えた田中一族』梓書院、2018年1月

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