日本史を代表する女城主。戦国の世に生きた「立花誾千代」の一生【後編】

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日本史を代表する女城主。戦国の世に生きた「立花誾千代」の一生【後編】

わずか七歳で家督を継ぎ、筑後国「立花城」の城主となった「立花誾千代(たちばなぎんちよ)」。【後編】では戦乱極まる北九州にあって、夫である立花宗茂と共に活躍した誾千代の武勇に迫りたい。

前回の記事

日本史を代表する女城主。戦国の世に生きた「立花誾千代」の一生【前編】

島津氏の侵攻

誾千代が宗茂と婚姻関係を結んだ1581年頃になると、九州は薩摩から北上してきた島津氏と、迎え撃つ大友氏との戦いが激化していた。戦が続く1585年、誾千代の父・道雪が高良山で死去。翌年には、誾千代の夫である宗茂の父・高橋紹運(たかはし じょううん)も討死してしまう。

島津氏の侵攻は大友氏領地の深部にまで及び、立花城も島津軍に包囲されたという。誾千代は宗茂と共に城を守ったとされる。大友氏はすでに本州を手中に治めつつあった豊臣秀吉に援軍を要請。秀吉軍の援護によって島津氏の勢いは沈静化し1587年に降伏。秀吉の九州平定が成った。誾千代18歳の出来事である。

誾千代の夫「立花宗茂」(Wikipediaより)

豊臣家臣として柳川へ

秀吉の九州平定を機に立花家は大友氏から独立し、豊臣直下の家臣となる。誾千代は筑後柳川13万石を拝領し大名となった宗茂と共に柳川城へ移った。

誾千代は柳川城へ入城後、程なくして城下の宮永村に住居を設け住んだことで「宮永殿」とも呼称される。別居の理由には夫婦不和が説かれているが、正確な事実はわかっていない。

関ヶ原での武勇

世の中の情勢が豊臣方と徳川方に分かれ関ヶ原の戦いが勃発すると、夫・宗茂は秀吉に対する忠義を貫き「西軍」に与した。近江の大津城を攻めていた宗茂は西軍敗北の知らせを受け国許へ帰国。しかし、徳川家臣の黒田孝高(如水)や鍋島直茂によって柳川城は攻められてしまう。

柳川城防衛に関しては誾千代の武勇としていくつかの逸話が残っている

誾千代は、西軍領地を制圧して北上してきた加藤清正軍と対峙した。誾千代と立花軍に応戦することを避けた清正は誾千代勢を迂回したため、柳川城は加藤軍の攻撃を受けずにすんだ。また、肥前国から襲来した鍋島軍を立花軍を指揮して撃退した。

いずれも歴史的裏付けはないが、誾千代の女城主としての猛々しさが伺える逸話だ。

晩年

誾千代と宗茂の健闘も虚しく柳川城は開城。宗茂は徳川家によって改易され領地を奪われてしまう。誾千代は近しい家臣と共に加藤清正の世話で肥後国の玉名郡腹赤村に移った。

関ヶ原から二年後の1602年、病で死去。享年34。宗茂との間に子はなかった。

誾千代の死から18年後の1620年、宗茂は柳川に領地を再封され、20年ぶりの故郷返り咲きに成功している。

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