これが源氏武者の生き様だ。源頼朝の兄弟たちが迎えた悲運な最期【前編】

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これが源氏武者の生き様だ。源頼朝の兄弟たちが迎えた悲運な最期【前編】

鎌倉幕府を開き、武家政権の樹立を果たした源氏武者、源頼朝。後世にまで影響を及ぼした偉大なる功績を頼朝は残したものの、落馬したことが原因で亡くなるという不慮の最後を迎えています。

また、頼朝の8人いる兄弟も頼朝同様に不慮の最後や悲運の最後を迎えていました(頼朝は源義朝の三男)。

今回は頼朝の兄弟たちが送った様々な最後をご紹介します。

 伝源頼朝/Wikipediaより

長男・源義平

源義朝の長男として産まれた義平は久寿2年(1155)に起きた大蔵合戦に15歳で出陣。この合戦で義平は若さを物ともしない勇猛さで、自身の叔父・源義賢(みなもとの-よしかた)と義賢の舅に当たる秩父重隆を討ち取る活躍を見せます。

これ以降、義平は鎌倉の剛勇な源氏の長男という意味合いで「鎌倉悪元太」と呼ばれるようになりました。

 源義平/Wikipediaより

やがて、保元元年(1156)の保元の乱を経て源氏を取り巻く政治情勢が大きく変わっていきました。

そして平治元年(1159)、父義朝は藤原信頼と共に当時の天皇、二条天皇を擁立するためにクーデターを敢行。

二条天皇を擁立したのはいいものの、平清盛の元へ脱走した二条天皇は義朝たちの追討命令を出したことで、平清盛と戦うことになります(平治の乱)。

平治の乱には義平も参加し、鎌倉悪元太の名に恥じぬ奮戦ぶりを見せましたが、兵力差には勝てず敗北。義平は義朝たちと東国へ落ち延びます。

落ち延びている途中で父と離れ東国を目指しましたが、父の死亡を知ると清盛の暗殺を行うために京都へ反転しました。

その後は平氏に捕らえられ、永暦元年(1160)に20歳で六条河原にて処刑されました。

次男・源朝長

康治2年(1143)に誕生した朝長(ともなが)は相模国松田に領地を持っていたので、松田冠者(まつだのかじゃ:冠者は若者の意)又は松田殿と呼ばれていました。

朝長は平治元年(1159)に、平治の乱が勃発すると父と兄義平と共に出陣します。そして敗北すると、兄たちと東国へ落ち延びます。

しかし、その途中で比叡山の僧兵が行く手を邪魔したため戦うことになり、朝長は左足に矢を受けてしまいました。

僧兵たちを退けた一行は別々で東国へ向かうため義平は東山道、義朝は東海道で東国へ向かいます。朝長は父と共に行くつもりでしたが、矢傷の悪化を理由に拒みました。

そして捕らえられるより死を望んだ朝長は、父の手によって16歳の若さで幕を閉じました。

また能の演目である修羅能(武将が主人公の能)には朝長を用いた「朝長」があります

 修羅能朝長/Wikipediaより

四男・源義門

頼朝の弟で義朝の四男にあたる義門(よしかど)は頼朝と同じ母である由良御前から産まれました。

平治の乱の前に官職を授かっていた義門でしたが、平治の乱の最中で討死したとされています。

没年が不明であるので亡くなった年齢は推測でしかありませんが、頼朝が平治の乱では13歳だったので、それ以下と断定できます。

五男・源希義

頼朝、義門と同じ母から産まれた希義(まれよし)は平治の乱で父と兄たちが亡くなった後、母方の伯父に捕まってしまい、永暦元年(1160)に10歳にも満たない年齢で土佐へ流刑となります。ちなみに頼朝も同年に伊豆へ流されています。

また土佐にちなんで、希義は土佐冠者(とさのかじゃ)と呼ばれていました。

その後、治承4年(1180)に頼朝が挙兵すると、希義も便乗して挙兵する気ではないかと疑いがかけられたことにより、平氏が希義追討令を出します。

希義は平氏からの追討を回避するために、自身に味方する夜須行宗の元へ行くことを計画します。

しかし希義の計画は平氏に洩れており、蓮池家綱と平田俊遠からの奇襲により希義は討ち死にしました。

頼朝は希義の死を非常に悲しみ、家綱と俊遠を討ち取った後に源氏ゆかりの荘園である介良荘(現在の高知県高知市介良)に、西養寺を建て供養しました

六男・源範頼

義朝の六男範頼(のりより)は遠江国蒲御厨(現在の静岡県浜松市)にて誕生したので、蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれていました。

 源範頼/Wikipediaより

頼朝挙兵後、範頼は寿永2年(1183)から平氏打倒のため活動を行い、寿永3年(1184)から木曽義仲を追討する軍の大将軍として約3万の大軍を指揮します。また、同年の一ノ谷の合戦では主力を率いて敵を引き付け、その隙に弟の義経が奇襲を仕掛けたことで平氏に勝利しました。

平氏滅亡後は頼朝の言いつけを守り、事あるごとに報告を怠らなかったことから、その忠実ぶりを評されました。また、文治5年(1189)の奥州藤原氏を滅亡に追い込んだ奥州合戦に頼朝と共に出陣しています。

しかし、建久4年(1193)での曽我兄弟の仇討で頼朝が討たれた誤報が流れた際、範頼は夫の死に嘆く北条政子に対して誤解を招く発言をしてしまいます。そのことをきっかけに範頼は謀反の疑いがあるとして、伊豆国の修善寺へ幽閉となりました。

その後は謀殺又は自害したといわれています。

【後編】へ続く

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