優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【中編】 (2/2ページ)

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朝倉氏の本拠地「一乗谷」(Wikipediaより)

優柔不断エピソード②「信長を二度取り逃す」

【金ヶ崎の退き口】
上洛後の義昭は足利15代将軍となることに成功する。その後も上洛要請を拒み続けた義景に対して信長は出兵し越前侵攻を開始する。義景は信長と交戦する軍の後詰めに出陣するが、刃を交えることなく一乗谷へ引き返している

1570年。優位と見られていた織田軍だったが、同盟関係にあった浅井長政の裏切りによって窮地に陥った。朝倉軍は浅井軍と共に優勢に転じるが、信長を捉えることはできず京都への退却を許している。

【姉川の戦い】
同年6月。体勢を立て直した信長は反撃を開始。浅井氏の領地姉川付近で戦となるが、義景は敦賀に留まり出陣していない。結果的に朝倉・浅井連合軍は敗北。近江南部の支配権を奪われてしまう。

優柔不断エピソード③「信長包囲網の放棄」

1572年から73年。反信長勢力によって包囲網が作られたこの時期は信長を討つ絶好機であった。義景は浅井氏の支援のために挙兵するが、積極的な動きは見せなかった。

翌年、甲斐の「武田信玄」が信長の同盟国である遠江・三河の「徳川家康」を攻め、義景に協力を要請して来るが、義景は信長包囲網のために駐留していた軍と共に越前へ撤退してしまう。

その後も、信玄や石山本願寺の「顕如(けんにょ)」から再三の出順要請を受けるも義景は黙殺している。73年の4月には織田軍に対して大きな脅威であった武田信玄が死去。こうして信長包囲網は瓦解していった。

このように信長を討つチャンスを自ら潰しているように見える義景。次回は優柔不断に見える義景の行動理由について考察する。

【後編へ続く】

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