優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【後編】
信長に対する自らの優柔不断さが災いし、結果的に一族滅亡の運命を辿った朝倉氏11代当主「朝倉義景」。【後編】では義景の煮え切らな態度の理由を考察していく。
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優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【前編】 優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【中編】 信長討伐に集中できなかった原因とは? ・北陸情勢の憂い義景が当主の座についた1548年当時、越前国を取り巻く情勢は決して安定したものではなかったという。本願寺門徒が中心となって起こした加賀一向一揆は、度々朝倉氏と対立し義景を悩ませた。義景は常に一揆勢の動向に注力する必要があり、信長との戦に集中することができない状態にあったことが推察できる。
・家中の不安分子朝倉家内部も一枚岩ではなかったようだ。中でも義景の従弟にあたる「朝倉景鏡(かげあきら)」との軋轢は大きかったとされる。
景鏡は当主名代として総大将を任されることもあった人物で、義景に次ぐ権力を保持していた。景鏡の父・景高と義景の父・孝景は不和であり、景高は謀反を企てたが失敗し没落した経緯があった。
父親同士の遺恨のままに義景と景鏡の関係性も悪く、景鏡は1573年の織田軍に対する出陣を拒否するなど、軍事行動面での非協力的な態度が目立った。最終的には義景を裏切り信長に本領を安堵されている。
義景にとって家中の問題は最重要課題であり、そのことが自身の積極的出陣の足枷となっていた可能性は十分だろう。
・側室と長男の死
長らく男児に恵まれなかった義景に長男「阿君丸(くまぎみまる)」が誕生したのは1562年のことだった。待望の男児に恵まれた義景だったが、阿君丸を生んだ直後に側室「小宰相」は死去。阿君丸自身も7年後の1568年に早世してしまう。死因には毒殺などの陰謀論があり直接の原因はわかっていない。
側室と長男の死を受けた義景は精神的に不安定になり、政務が滞る日々が続いたという。1568年は将軍就任前の義昭が越前に滞在していた時期であり、義景が義昭を伴って上洛する意思を見せなかった原因の一端であったかもしれない。
41年の生涯最後は一乗谷から東に建つ賢松寺で自害し果てた義景。享年41。先代から引き継いだ家中の問題に加え、織田信長という新興勢力と敵対することで滅びることとなった朝倉氏。
義景の優柔不断という人物像には上述したような理由が関係しているのかもしれない。一方、積極的な外交や多彩な文芸など評価されている面も多い義景。実際にどのような人物であったのか。まだまだ歴史的な検証が必要だろう。
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