優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【後編】 (1/2ページ)
信長に対する自らの優柔不断さが災いし、結果的に一族滅亡の運命を辿った朝倉氏11代当主「朝倉義景」。【後編】では義景の煮え切らな態度の理由を考察していく。
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優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【前編】 優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【中編】 信長討伐に集中できなかった原因とは? ・北陸情勢の憂い義景が当主の座についた1548年当時、越前国を取り巻く情勢は決して安定したものではなかったという。本願寺門徒が中心となって起こした加賀一向一揆は、度々朝倉氏と対立し義景を悩ませた。義景は常に一揆勢の動向に注力する必要があり、信長との戦に集中することができない状態にあったことが推察できる。
・家中の不安分子朝倉家内部も一枚岩ではなかったようだ。中でも義景の従弟にあたる「朝倉景鏡(かげあきら)」との軋轢は大きかったとされる。
景鏡は当主名代として総大将を任されることもあった人物で、義景に次ぐ権力を保持していた。

