即身仏になることが何を意味し、そこにはどんな目的があったのか

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即身仏になることが何を意味し、そこにはどんな目的があったのか

日本のミイラとして名高い「即身仏」は全国に20〜30体ほど存在しており、即身仏が安置されている寺院には参拝者が絶えない。自ら命を絶った彼らをなぜ人は敬うのか。

■即身仏とは?即身仏になるまでの過酷な過程

即身仏は主に真言宗系の僧侶が、民衆を救うた肉体を持ったまま仏になることを望み、肉体をミイラ化したものである。即身仏になるには過酷な過程を経る。まず食を断ち肉体をミイラ化していく。食事を木の皮や木の実だけにする「木食行」と呼ばれるもので、米や麦、小豆などの穀物を断つ「五穀断ち」が行われる。五穀といっても5種類ではなく穀物とされるものはすべてが拒否され、最終的には木の皮と実のみを食するようにする。食物には水分補給の意味もあるから、木食行を続けると脂肪どころか水分まで枯渇し、我々が目にするミイラのような枯れた肉体に近づいていく。こうすることで腐敗させず乾燥したミイラ化が実現できる。そしていよいよ土の中に入ることになる。地下に掘られた密閉空間に閉じこもり、事切れるまで読経をしながら鐘を鳴らす。鐘の音が消える時が今生との縁が切れるときである。音が消えると弟子たちが空気穴を塞ぎ、3年程経過したのちに即身仏として鎮座させる。即身仏はその寺院の本尊のような扱いをされて礼拝の対象となるのである。現在に至るまで、多くの参拝者が即身仏の御姿を求めて訪れている。

■日本で代表的な即身仏

即身仏の中でも代表的な存在が湯殿山注連寺に安置されている鉄門海(1768〜1829)だろう。鉄門海は真言宗智山派の僧侶。元々肉体労働に従事していたが、殺人を犯し智山派の注連寺で得度。各地を行脚し布教活動や病気の治癒などに尽力したという。そして即身仏となるべく上記の過程を経て61歳で入定した。人生の終着点が即身仏という荒行であったのは、その苛烈な生き様を表している。

■似て非なる即身仏と即身成仏

即身仏という概念は真言密教の「即身成仏」に深く関係していると思われる。しかし混同されることが多いが即身仏と即身成仏は全くの別のものである。即身成仏は真言密教の最高奥義とされる境地である。「成仏」とは悟りを開くことだと言ってよい。仏教では悟りを開けない限り輪廻転生を繰り返すと説く。悟りを開き輪廻の輪から解放されることを解脱といい、これを成し遂げた者は「仏」と呼ばれる。仏典では「三劫成仏」といって気が遠くなるような長い時を経てようやく成仏できるとする。

しかし、普通の衆生にそんなことができるわけがない。そこで浄土信仰が生まれた。生きている間に成仏はできずそのままにして死ねば次の輪廻転生が待っている。そこで浄土に往生するよう祈り、浄土で成仏するための修行を積むのである。極楽浄土などは一般的には天国のような楽園をイメージする人が多いが、実は寿命の期限を気にせず仏になるための修行をする新たなステージなのである。いわゆる極楽往生とは極楽浄土に往き修行することを指す。天国のイメージは仏教では天界(天道)が相応する。苦しみの無い快楽に満ちた世界だが、「楽」や「快」に囚われている意味では悟ってはおらず、人間界や地獄と並ぶ世界に過ぎない。

■生きて仏になることを説いた空海

これに対し空海(774〜835)は死んで成仏しても意味がないとし、生きたこの肉体を持って仏になることを説いた。空海が創始した真言密教では精密なカリキュラムを経て、密教の教主であり絶対的真理の象徴、大日如来と身体を持ったまま一体となり、生死の輪廻を超越するという。抽象的かつ難解ではあるが、少なくとも空海が即身成仏について書いた「即身成仏義」にはミイラになれとは一言も書いていない。

■生きている空海

即身仏は明らかに空海の説く即身成仏の定義からは外れている。ミイラとは保存された死体であるわけだが、空海本人はまだ死んでいない。彼はまだ肉体を持ったまま生きているとされる。高野山の奥の院にある大師霊廟には1000年を経て今なお、空海は生きて禅定に入っていると信じられている。空海の元には維那(いな)と呼ばれる世話係によって毎朝2回食事が運ばれている。その真実を維那に聞いてももちろん答えてはくれない。

即身仏がこの伝説に触発されたことは確かだろう。空海には及ばずとも、それに近い境涯を目指した末の答えが即身仏なのかもしれない。

これはこれで信仰の形である。しかし即身成仏とは本当にそのような意味なのだろうか。即身=肉体を持ったままとの語が、肉体をこの世に保存しておく状態を指すとは思えない。例えば終末期患者でありながら、宗教的な境地に達し、静かに死を受け入れた人がいるなら、それは既に仏に成っている=成仏しているとは言えないだろうか。即身仏のようなそこまでして肉体をこの世に置く意味は理解し難い。しかし即身仏は崇敬される存在である。なぜなのか。

■即身成仏に影響を受けた即身仏

即身仏がこの伝説に触発されたことは確かだろう。空海には及ばずとも、それに近い境涯を目指した末の答えが即身仏なのかもしれない。

これはこれで信仰の形である。しかし即身成仏とは本当にそのような意味なのだろうか。即身=肉体を持ったままとの語が、肉体をこの世に保存しておく状態を指すとは思えない。例えば終末期患者でありながら、宗教的な境地に達し、静かに死を受け入れた人がいるなら、それは既に仏に成っている=成仏しているとは言えないだろうか。即身仏のようなそこまでして肉体をこの世に置く意味は理解し難い。しかし即身仏は崇敬される存在である。なぜなのか。

■即身仏が意味するもの

即身仏は現代の我々から見れば常軌を逸した行為としか思えない。鉄門海の即身仏は一時は見世物として回っていたという。命を賭した挙げ句が見世物ではなんの意味があったのか。その意味では即身仏は肉体に執着しすぎているようにも思える。とはいえ、その情念に圧倒されることも確かだ。我々には強靭な意志の持ち主に対する畏敬の念がある。古来より荒行を積んだ高僧は生きながらにして崇敬の対象であった。現代でも比叡山で行われる千日回峰行は天台宗屈指の荒行とされ、完遂した者は生き仏として崇められる。心身の極みに到達し生死を超えたかに思える存在は、生に苦しみ死を恐れる我々の心を捉えるものがある。

そもそも彼らは不老不死になりたいとかそういった私欲のために即身仏になったわけではない。仏になるのはあくまで苦しむ民衆を救うためである。現代的な視点では理解しようとしてはいけないのかもしれない。仏となった彼らは民衆のために仏に祈り続けているのである。

■参考資料

■空海「即身成仏義」角川文庫(2013)
■宮坂宥勝「仏教の思想 生命の海(空海)」角川文庫(1996)
■土方正志「日本のミイラ仏をたずねて」山と渓谷社(2018)

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