人質約700名の命と引き換えに逃亡。信長を裏切った戦国大名「荒木村重」【後編】
戦国大名「織田信長」を裏切り、有岡城に籠城した「荒木村重(あらきむらしげ)」。信長との講和を拒否した村重の関係者は700名近くが処刑された。【後編】では、その後の村重の人生と、謀反の利用を考察する。
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1580年。花隈城に移った村重は、追撃してきた織田方の重臣・池田恒興軍と2度にわたって交戦している。織田軍は2度目の戦いで花隈城を開城させることに成功するが、村重はしぶとく逃亡し毛利氏を頼って西国に落ち延びた。
1582年に信長が横死すると、村重は堺に戻り居を構えたという。晩年は秀吉の元で茶人として活動したという記録も残っている。1586年に堺で死去。享年52。
謀反の謎村重が信長を裏切った利用は現在でも判明していない。謀反の理由には信長との不仲説や、足利義昭の陰謀説など諸説あるが、どれも確証は得られていない。
比較的信憑性の高いものとして、摂津国の支配体制に関する説を上げることができる。摂津国は土着の国衆の勢力が強く、摂津を支配下に収めようとしていた信長に対する反感の気運が高い土地だった。
摂津国を任されていた村重は、信長と自国勢力との間で板挟みとなり、結果的に信長を裏切る選択をしたというものだ。
逃亡の理由謀反の理由は定かでないが、戦国の世における裏切りや下克上は珍しいことではない。村重に関して特徴的であるのは、むしろ「逃亡劇」だろう。
武士である村重が、自身が逃亡することによる人質の運命を予期できないはずはない。人質を犠牲にしてまで逃亡したのは、村重自身が臆病者であったからなのか。
そもそも村重には、謀反に対する相応の覚悟があったのかどうか疑問が残る。事実、村重は織田方の使者の説得を受け一度は翻意したが、家臣に説得され思い止まっている。村重の覚悟の危うさを感じさせるエピソードだ。
中途半端な覚悟で一度は謀反を実行したが、怖くなり翻意を試みるも失敗。引っ込みが付かなくなり戦を続けるも、形勢不利とみて逃亡を決意。といった推測は穿った見解だろうか?
もちろん推測に過ぎないが、いずれにしても村重の逃亡によって700名近い関係者が処刑されたことは事実だ。
最晩年には出家し仏門に入ったという村重。自身の生涯をどのように見つめていたのだろうか。
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