本能寺の変と細川藤孝の決断。明智光秀と共に滅びる立場にありながら豊臣秀吉から功を賞された男 (2/3ページ)

Japaaan

ここで強調しておきたいのは、藤孝が光秀の家臣ではなかったということです。

藤孝も光秀も権限の差こそあれ、どちらも信長の家臣という意味では同格でした。
藤孝はあくまで、主君である信長が「光秀の指示に従え」と命令したからそれに従っているという関係。このことは、本能寺の変が起きた後の藤孝の行動に大きく影響します。

本能寺の変、そして

1582年6月2日早朝、毛利氏を攻略すべく中国地方に向かっていたはずの明智光秀の軍勢が突如京に現れ、本能寺に宿泊中の織田信長を襲撃。信長は自刃に追い込まれます。

続いて二条御所に立て籠もった織田信忠(信長の長男であり後継者)を攻め滅ぼすと、光秀は自身が天下に号令する旨を宣言。周辺の大名、特に織田家臣時代に光秀の指揮下にいた大名たちに、自分に味方するよう使者を送ります。

その中には当然、細川藤孝も含まれていました。

藤孝と光秀は長年に渡って共闘していた仲であり、藤孝の息子・忠興と光秀の娘・たまは結婚していたため、親戚同士でもありました。
(余談ですが、たまは後にキリスト教徒となり細川ガラシャと呼ばれることになります)

光秀も、藤孝だけは何があっても見方してくれるだろうと思っていたに違いありません。しかし、その期待は打ち砕かれることになります。

藤孝の対応

藤孝が本能寺の変を知ったのは、事件の翌日である6月3日。

すぐさま藤孝は信長の死を悼むと称して剃髪(髪を剃って僧形になること)し、当主の座を息子・忠興に譲って隠居。さらに

光秀に義絶を通達する 大阪にいた織田信孝(信長の三男)に忠誠を誓う使者を出す たま(光秀の娘)を幽閉する 光秀からの使者を追い返す

といった具合に「絶対に光秀には味方しない」という姿勢を、これでもかというくらいに打ち出します。

6月9日には再び光秀からの使者が訪れ、破格の好待遇で味方に誘う……というより、もはや泣きつくように懇願しますが断固拒否。

ずいぶん徹底的にやったなあという印象ですが、これには理由がありました。

前述の通り、藤孝と光秀が公私ともに親しい……というより一蓮托生の状態にあることは周知の事実でした。

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