本能寺の変と細川藤孝の決断。明智光秀と共に滅びる立場にありながら豊臣秀吉から功を賞された男 (3/3ページ)

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つまり本能寺の変の第一報を受けた世間が

「細川藤孝も一味に違いない」

と考えるのはむしろ自然なことですし、ちょっとくらい反光秀っぽいことをしても

「裏で繋がっているんでしょ?」

という疑いを拭いきることはできません。

津田信澄(信長の甥)は光秀の娘婿でしたが、それを理由に光秀に通じていたと誤解され、自刃に追い込まれています。藤孝も同じような目に遭う可能性は十分過ぎるほどありました。
光秀に与しないというパフォーマンスは、どれだけやってもやり過ぎということはなかったのです。

光秀はそれでも諦めずに藤孝を説得しようとした……かどうかは、今となっては分かりません。彼は6月13日に山崎の地で羽柴秀吉と戦い敗れ、逃走中に命を落としたのです。

山崎の戦いと藤孝

ここまで徹底して反明智を貫いた藤孝のことですから、山崎の戦いでは羽柴軍の一翼を担い果敢に戦った……かと思いきや、そんなことはありませんでした。

細川軍は領国から一歩も動かなかった、あるいは動けませんでした。

当時、細川家は丹後国(現在の京都府北部)南部に拠点を置いていたのですが、丹後北部の一色家が光秀に味方することを表明していました。

羽柴軍と明智軍が激突したのは京都と大阪の境目あたり。藤孝が軍を率いて南下したら、無防備になった本拠地を一色に襲われかねません。一色側から見ても、細川家がいる以上京方面へ進出することができません。

結局、丹後国で細川家と一色家がにらみ合っている間に山崎の戦いは起こり、決着していたのでした。

これは「戦いに間に合わなかった」ということで責められても不思議ではない状況です。しかし勝者となった秀吉からは

「あなた方の活躍は見事でした。今後も仲良くしてください(意訳)」

という絶大な感謝を受けることになりました。

【後編】藤孝の功績とは?藤孝はなぜ決断できたのか?に続きます…

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