“平氏追討”はやけっぱちだった!? 源頼朝“挙兵”の「動機と裏事情」 (3/3ページ)

日刊大衆

 九条兼実(のちの関白)の日記である『玉ぎょく葉よう』には、「(清盛が)仲綱の息(子息)追討のために武士等を遣わす」とあり、相模国の豪族だった大庭景親が清盛から有綱追討の任を与えられ、この知らせが六月一九日、頼朝の元に届いたと考えられる。

 というのも、『吾妻鏡』によると、頼朝の乳母の妹を母に持つ三善康信(のちの鎌倉幕府の問注所執事で、朝廷の官僚)の使者が下向し、北条館で彼と対面。使者は以仁王と頼政が敗死したことを伝え、「君(あなた)は源氏の正統(嫡流)である。ここは危険であるから奥州へ逃げたほうがよい」という康信の言葉を伝えた。

 頼朝が四月二七日に令旨を受け取ったという冒頭の話が『吾妻鏡』の捏造なら、このときに以仁王の令旨が届いていたかどうかは微妙なところ。むろん、いつかは届くとしても、頼朝挙兵の動機はこの有綱追討にあったといえよう。

 つまり、それまでノーマークだった頼朝は、自身が清盛の視界に入ったことから有綱とともに追討されかねず、それならば、いっそ――と半ば、やけっぱちに挙兵の準備を始めたのではないだろうか。

 六月二七日には、京で大番役に就いていた三浦義澄(相模の豪族・三浦義明の次男)と千葉胤頼(下総の豪族・常胤の六男)が関東下向の途次、北条に立ち寄って頼朝と密談している。

 この両一族が後に頼朝を支えたことを考えれば、密談から挙兵までが一ヶ月半と妥当な期間であることから、空白の謎は消える。

 窮鼠猫を噛む――それこそが頼朝挙兵の真相ではないだろうか。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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