“平氏追討”はやけっぱちだった!? 源頼朝“挙兵”の「動機と裏事情」 (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 著名な歴史書である『吾妻鏡』は、伊豆の北条館(伊豆の国市)にいた源頼朝の元に治承四年(1180)四月二七日、以仁王令旨が届くところから始まる。平氏追討の命令だ。

 頼朝は父の義朝とともに平治の乱(1159年)で平清盛に敗れたことから当時、伊豆で配流生活を送り、伊豆国の在庁官人(現地に在住する地方官)だった舅の北条時政が平氏の横暴に苦しめられていた。

 頼朝はこうした中、平氏追討の令旨が舞い込んだことで、かねて平氏に不満を抱いていた伊豆・相模の豪族(武士)とともに挙兵を決意。ところが、八月になり、参陣を呼び掛けた豪族の中から平氏に遠慮して挙兵に応じない者が現れた。

 当然、こうなると、平氏に挙兵の話が漏れたと考えなければならず、頼朝は三島大社の祭礼が行われる一七日、警備が手薄になると踏み、平氏の目代である山木兼隆と、その後見人である堤信遠の館を急襲。総勢は北条時政と義時の父子や土肥実平、佐々木定綱と経高の兄弟ら八〇騎ほどだったとされ、佐々木がこのときに放った矢が「源家が平氏を征する最前の一箭なり」(『吾妻鏡』)とされるように源平合戦、あるいは治承・寿永の内乱と呼ばれる争乱の幕開けを告げた。

 以上が巷間伝わる頼朝挙兵のあらましだが、いくつか疑問もある。まず、以仁王の令旨が頼朝の元に届いてから挙兵するまで、三ケ月以上の空白があること。

 むろん、流人の頼朝が挙兵するには当時、その程度の準備期間が必要だったという見方もあるものの、実際に豪族らに軍勢の催促を行い始めたのは八月から。

 事実、平氏に対する謀叛が露見した以仁王が五月一五日深夜、京の三条高倉の御所を抜け出し、園城寺(大津市)に逃亡し、その後に諸国の源氏に令旨を発した、とする説もある(永井晋『源頼政と木曽義仲』)。

 ところが、『吾妻鏡』では、この二週間以上も前に頼朝の元に令旨が届いたとされ、この矛盾については「鎌倉幕府の影響下にある『吾妻鏡』は、以仁王からの令旨を最初に受け取ったことにしたいので、令旨の日付や受け取った時期を四月へさかのぼらせた可能性がある」(前同)という。確かに鎌倉幕府の公式歴史書という『吾妻鏡』の性格を考えると、十分にあり得る話だ。

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