“平氏追討”はやけっぱちだった!? 源頼朝“挙兵”の「動機と裏事情」 (2/3ページ)
とはいえ、これで空白の謎が解けたわけではなく、その鍵に迫るため、以仁王と源頼政という老武将について検証したい。
以仁王は後白河法皇の第三皇子(異説あり)で、有力な皇位継承権者でありながら、甥である安徳天皇が清盛に支持されて即位したことから、皇統が「兄・高倉上皇-甥・安徳天皇」のラインに引き継がれ、完全に干される形になった。
だが、以仁王はそれでも、鳥羽法皇の皇女であり、各地で荘園を経営して大勢の武士を家人として抱える八条院暲子内親王の猶子となり、支持者がいなかったわけではなかった。
ちなみに、以仁王の令旨を諸国の源氏に下す役目を担ったのは頼朝の叔父である源行家で、彼は八条院の蔵人。皇位継承権があり、かつ、八条院という支持基盤を持つ以仁王に、「高倉-安徳」の皇統を維持しようとする清盛が警戒して謀叛という無実の罪を着せた疑いは否定できず、王にも平氏を討とうとする動機は十分にあった。
一方、平治の乱で清盛に与したことで、源氏でありながら彼に厚遇された源頼政もまた、人脈的には八条院に繋がり、このネットワークが以仁王の挙兵をもたらしたといえる。
以仁王は諸国の源氏に挙兵を促したものの、平氏が逃亡先の園城寺攻撃の姿勢を見せると、そこに合流してきた頼政とともに、新たに蜂起した興福寺を頼みとして、五月二五日夜、南都(奈良)を目指した。
だが、頼政は宇治で平氏の軍勢に追いつかれて敗死。以仁王はなおも南に進んだが、途中で流れ矢に当たり、非業の死を遂げた。
■頼朝が挙兵した動機は有綱の追討にあった!?
しかし、清盛はそれでも警戒を緩めない。頼政が宇治で敗死した際、ともに討ち死にした嫡男の仲綱の子である有綱が目代として伊豆に在国していたためだ。
そもそも伊豆は頼政が知行国主に、仲綱が国守に任じられた地盤ともいえる土地で、清盛は彼らの残党を警戒していたのである。