天下人・豊臣秀吉にいたとされる4人の実子は本当か?現代まで残る風説を紹介【前編】 (1/2ページ)

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天下人・豊臣秀吉にいたとされる4人の実子は本当か?現代まで残る風説を紹介【前編】

低い身分の出生でありながら、天下人にまで上り詰めた戦国三英傑の一人「豊臣秀吉」

秀吉は後継に恵まれず、晩年にもうけた待望の男児である豊臣秀頼を溺愛したというエピソードは有名だ。秀吉の実子については様々な憶測や流言が現代まで残っている。

今回は、天下人・豊臣秀吉の実子について検証してみたい。

4人いたとされる実子

正室の「高台院(こうだいいん)」との間に子ができなかった秀吉は養子をとった。関白となった「豊臣秀次」や、関ヶ原の戦いで西軍を裏切った「小早川秀秋」をはじめ、多くの養子がいたことが確認されている。

では実子はどうか。秀吉の子といえば、側室であり浅井三姉妹の長女「茶々(ちゃちゃ)」との間に生まれ、後に豊臣家の家督を継いだ「豊臣秀頼」を思い浮かべる人も多いだろう。

秀吉の長男とされる「豊臣秀勝(石松丸)」Wikipediaより

しかし、秀吉には他にも3人、合計4人の実子がいた可能性があるという。どの人物にも非実子説も根強く残っているが、以下にそれぞれの人物像をご紹介する。

①羽柴秀勝(石松丸)

秀吉最初の実子であると考えられている。母親の詳細はわかっていないが、側室であったようだ。秀吉が長浜城主時代にできた子供らしく、幼名を「石松丸(いしまつまる)」といった。

秀吉が長浜城主となったのは1573年であり、秀吉の生誕を1537年とすると(諸説あリ)、30代中頃以降にできた子供という事になる。

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