巴御前には負けないわ!男顔負けの武勇を誇る、木曾義仲が愛した女武者・山吹御前【前編】

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巴御前には負けないわ!男顔負けの武勇を誇る、木曾義仲が愛した女武者・山吹御前【前編】

時は平安末期のこと。

奢れる平家に対し判然と反旗を翻し、怒涛の勢いで平家を都から追いやった木曾(源)義仲

その傍らには3人の美女・巴御前山吹御前・葵御前が甲冑姿も凛々しく控えていました。

有名な巴御前に比べると、山吹・葵の二人はあまり知られていません。今回は山吹御前に焦点をあて、その謎に満ちた生涯を紹介しましょう。

女性が武芸に励み地位も高かった時代

女性が男性同様の地位を認められた鎌倉時代の武士(地頭階級)の生活を描いた『男衾三郎絵詞』。 (写真:wikipedia)

日本の歴史の大部分において、女性の地位は低いものでした。

戦国時代には政略結婚の道具に使われ、江戸時代になると江戸幕府が主導した儒教思想のもと女性の地位は著しく低下し、男尊女卑の風潮が蔓延してしまいます。

しかし、男性同様な地位を認められた時代もありました。その一つが、平安末期から鎌倉時代であったのです。

男性に替わり自ら弓や薙刀などの武器を手に敵と戦う

『源平合戦図屏風』(写真:wikipedia)

この時代は、源平争乱が起こった動乱の時代。武家の男性は戦闘のために領地や屋敷を空けがちになります。その間、男性に替わり女性が領地や家臣の管理などを行いました。

そして、もし敵が攻めてくれば、女性が家臣を率いて戦闘の指揮を執り、自ら弓や薙刀などの武器を手に戦ったのです。

この時代の武家の女性たちの多くは、幼い頃から男性同様に武芸の修練を積んでいました。強いはずですよね。

山吹御前は、信州の有力武家の出身?

源(木曾)義仲の愛妾で、女武者として活躍した山吹御前。(歌川国芳作/賢女烈婦伝 山吹御前)写真:wikipedia

義仲に仕えた3人の美しき女武者

木曽(源)義仲に仕えた3人の女武者・巴御前・山吹御前・葵御前は『平家物語』に登場します。

彼女たちは「便女(びんじょ)」(※1)という名で描かれており、義仲の愛妾でありながら、合戦では一手の軍勢を率いて戦う部将でもありました。

そして、当然ながら幼い頃から軍事教育を受けた武士の娘。巴と葵は、義仲を育てた中原兼遠の娘との説があり、おそらくは義仲と兄妹のように育ったことでしょう。

一方、山吹は、信州の有力武士団である滋野一族の筆頭・海野氏や下諏訪社の「大祝(おおほうり)」(注2)である金刺氏の出という説があります。

本当なら、出自としては巴や葵よりも上位の家柄の出身。これが、義仲の嫡子である義高の生母説の根拠の一つと考えられているのです。

最強の女武者として知られる巴御前。(蔀関月作/巴御前出陣図)写真:wikipedia

木曽義仲に従い平家追討へ

山吹、巴が仕えた源(木曾)義仲。(木曾義仲像/徳音寺所蔵)写真:wikipedia

1180(治承4)年、義仲は平家追討の兵をあげます。義仲に従った巴・山吹・葵の3人は、信濃国内の戦いで勝利し北陸に進出。

そして、1183(寿永2)年、倶利伽羅峠の戦いで、10万といわれる平家の大軍を撃破し、ついに入京を果たしました。しかし、この戦いで葵御前は、奮迅むなしく討死にしたと伝わります。

(※1)
便女…美女・召使の女性。
(※2)
大祝…諏訪明神の神霊が宿る生き神様として、諏訪大社(上社・下社)の頂点に位置した神職。

さて、山吹御前のその後はどうなったのでしょうか……

【後編】に続きます。

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