時の権力者に苦言を呈した高僧!明恵上人は「鎌倉時代の半沢直樹」 (3/3ページ)

日刊大衆

 明恵は一時、三蔵法師のように天竺(インド)を旅することを志したこともあったが、神護寺の別院でありながら荒廃していた高山寺の再興を二六歳の頃、文覚から託される。

 ちなみに世界遺産の高山寺は国宝の『鳥獣戯画』を所蔵していることでも知られ、日本で初めて茶が栽培されたところといわれる。

 臨済宗を開いた栄西禅師が中国の宋から持ち帰った茶の実を明恵に伝え、山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるため、衆僧に薦めたという。

 これも『伝記』に書かれた話で、明恵の弟子である喜海の作とされ、奥付にもその旨が記されている。

 むろん、多少の誇張があったとしても事実と考えたい反面、明恵の存在が理想化された南北朝時代以降、弟子に仮託して作られたともいわれ、内容は全面的に信用することはできない。

 とはいえ、明恵と泰時が互いに和歌を贈答する仲だったことは事実。実際、その和歌に「心は常に通う」という字句があり、また、明恵が荘園の寄進を辞退した事実も確認することができる。

 一方、栄西と明恵の交流は確かな史料で確認することができない。

 むろん、関係はあったようだが、茶の逸話については栂尾における栽培が有名となったため、日本にこれをもたらしたとされる栄西の話が合わさって伝説化したのだろう。

 多くの伝説を残した明恵はこうして寛喜四年(1232)正月一九日、かねてよりの病いが悪化し、高山寺禅堂院で喜海らの弟子に見守られ、この世を去った。享年六〇。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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