時の権力者に苦言を呈した高僧!明恵上人は「鎌倉時代の半沢直樹」 (2/3ページ)

日刊大衆

泰時はこうして明恵に深く帰依するようになった。

 一方、明恵を捕縛した秋田城介が語ったところによれば、泰時は後に人に会った際によく、こんなことを口にしていたという。

「不肖蒙昧の身でありながら執権として天下の政をつかさどることができたのは一筋に明恵上人の御恩あったゆえである」

 その明恵の教えは「太守(執権)が無欲に徹すれば、その徳に導かれ、国家の万民も自然と欲心を抱かぬようになり、天下は安んじられる」というもの。

 泰時は実際、その教えを守り、父の義時が逝去した際、伯母である北条政子の反対を押し切り、遺産をわずかばかり相続し、その多くを舎弟らに分配。

 彼が高山寺に丹波の荘園を寄進したいと申し出ると、明恵は「かような所領があれば僧たちが怠けてしまい、浅ましい様になりはててしまう」といって返却したという。

 はたして、以上の二人のやり取りは事実だろうか。

 明恵は承安三年(1173)正月に生まれ、父が高倉上皇(平清盛の婿)の武者所に仕える関係から京で育った。八歳のときには父が上総国で戦死。ちょうど源頼朝が挙兵した頃だけに、その軍勢と平氏方の武士が戦って敗れた合戦で討ち死にしたのだろう。

 明恵はその後、叔母の夫に養われ、父が他界した翌年、紀伊の豪族で縁のある湯浅一族の者が文覚上人の弟子だったことから、高尾の神護寺(右京区)に入山。

 厄介払いされたようにも思われるが、明恵は二歳の頃、乳母に連れられて清水寺に参詣して深く仏教に帰依するようになったともされる。僧になることは自らの意思でもあったとみられ、こうして高尾で顕密の教えを学び始める。

■明恵と泰時はお互いに和歌を贈答する関係!

 仏教は大きく顕教と密教に分けられ、彼はその両方に通じ、のちに前者である華厳宗に密教の要素を取り入れ、華厳密教(厳密)の教えを広めるようになった。

 その後、明恵は一六歳で出家し、東大寺戒壇院で受戒。のちに東大寺尊勝院学頭となって華厳宗の復興に尽力し、浄土宗の開祖である法然上人の教えを批判したことでも知られる一方、やはり、前述の高山寺の印象が強い。

「時の権力者に苦言を呈した高僧!明恵上人は「鎌倉時代の半沢直樹」」のページです。デイリーニュースオンラインは、幕府半沢直樹歴史エンタメなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る