豊臣秀吉の痕跡をあとかたもなく消し去れ!墓も神社も破壊した徳川家康の執念 【後編】 (2/6ページ)

Japaaan

しかし、家康の豊臣家に対する仕打ちはそれだけにとどまりませんでした。

家康が次に狙いを定めたのが、京都における豊臣秀吉の痕跡を一切消し去ることだったのです。

それが、秀吉を祀る豊国神社とその墓である豊国廟の廃止でした。

1615(元和元)年、家康の意向により、勅許を得て「豊臣乃大明神」の神号が剥奪されます。ここにおいて、秀吉は神ではなくなり、その霊は方広寺大仏殿裏側に建てられた五輪塔に遷されました。

秀吉の遺体そのものは、阿弥陀ヶ嶽山頂の豊国廟に残されたまま放置されたのです。

 阿弥陀ヶ嶽山頂に続く豊国廟の参道。

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